岩佐又兵衛とは? わかりやすく解説

いわさ‐またべえ〔いはさまたべヱ〕【岩佐又兵衛】

読み方:いわさまたべえ

[1578〜1650]江戸初期画家戦国武将荒木村重末子。字(あざな)は勝以(かつもち)。又兵衛通称初め福井住み晩年江戸で過ごした土佐派雲谷(うんこく)派など和漢画法学び人物画などに独自の画風展開した浮世又兵衛ともよばれ、浮世絵創始者とする説もある。


岩佐又兵衛

作者松本清張

収載図書小説日本芸譚 改版
出版社新潮社
刊行年月2008.5
シリーズ名新潮文庫


岩佐又兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 08:36 UTC 版)

岩佐 又兵衛(いわさ またべえ、天正6年(1578年) - 慶安3年6月22日1650年7月20日))は、江戸時代初期の絵師。又兵衛は通称で、は勝以(かつもち)。


注釈

  1. ^ 近年、『寛永諸家系図伝』所収の荒木家の家系図に、村重の息子に又兵衛に当たる男子の名が無い事、村重の嫡男荒木村次の長男村直の注釈冒頭に「又兵衛」とあり、もし仮に村直と岩佐又兵衛を別人とすると、ほぼ同時代の一族内に「又兵衛」を名乗る人物が2人いて、更に岩佐又兵衛が系図から抜け落ちていることになり、どちらも却って不自然である事、この荒木家系図を作成し幕府に提出したのは村次の次男で、村直の弟に当たる村常という極めて近い親族であり、この時岩佐又兵衛は存命で同じ江戸で活躍しており誤謬の可能性は極めて低いなどの論拠から、岩佐又兵衛は村重の子ではなく孫で、村重の子村次の長男村直とする研究者もいる(畠山浩一「岩佐又兵衛伝再考 ─血縁関係の再検討を中心に」、『国華』第1364号第114編第11冊所収、2009年)。なお、辻惟雄は翌月の『国華』にてこの論文に批判を加えており(「随想 岩佐又兵衛は村重の子か孫か、母親は? ─畠山氏の論を追考する─」)、畠山は辻の反論は反論になっていないと再批判している(畠山浩一 「岩佐又兵衛と近世初期風俗画に関する研究」東北大学博士論文、2010年)。なお、藤貞幹著『好古日録』(寛政9年刊)で、藤は又兵衛は村重の孫だと記している。
  2. ^ しばしば又兵衛の母は村重の妻・だしとされるが、だしは岩佐姓ではなく、本願寺を実務的な立場から支えた一族・川那部氏の可能性が高い。『寛永諸家系図伝』の村直又兵衛の母は碓井氏とある。村次は『立入左京亮入道隆佐記』などの史料によって明智氏の娘を娶っていたことが知られ、当然岩佐姓ではない。堀直格『扶桑名画伝』では岩佐は乳母の家の姓とし、畠山は土佐派を意識したものとしている(「岩佐又兵衛と荒木一族」、東北大学大学院文学研究科美術史学講座 『美術史学』30号所収、2009年)。
  3. ^ 又兵衛はしばしば絵に押した印章を使い分けており、福井在住期のうち忠直時代には四角の「碧勝宮圖」(白文方印)を使っていたが、忠昌時代になると円い二重輪郭で真ん中に諱の「勝以」を楷文で書いた印(楷文二重円印)を使っている。また忠昌時代と江戸在住期に使用した勝以印にも違いが見られ、前者は楷文二重円印の他に円い二重輪郭で篆文の勝以印(篆文二重円印)も使い、後者は円い一重輪郭で篆文の勝以印(篆文一重円印)を用いた。また円印とセットで別の印も使い、「道」の字を四角の中に入れ、その周りを丸い輪郭で囲んだ小円印は楷文二重円印と、「道蘊」という篆文の四角い小印(朱文方印)は篆文二重円印・篆文一重円印と共に用いた[11]
  4. ^ 廻国道之記は明治31年(1898年)8月と9月に刊行された美術雑誌『国華』の107号・108号に、斎藤謙(栗堂)によって又兵衛の子孫の荒木知栄の所持品として公刊・全文掲載された。明治43年(1910年)に福田源三郎が刊行した『越前人物志』にも廻国道之記原本の1ページが掲載され(原本は現存せず)、鈴木廣之東京大学史料編纂所で発見した廻国道之記の謄写本を昭和59年と60年(1984年1985年)の『美術研究』に掲載した。また美術研究で謄写本を紹介したテキストによると、廻国道之記の前半に「ゑ」と描かれた箇所が5つあることから、又兵衛自筆の挿絵入り旅日記だったことが判明した。内容は『土佐日記』以来の紀行文の体裁を取り文章は流麗な擬古文、『源氏物語』『伊勢物語』など随所に古典文学を引用、又兵衛の文学の素養の高さをうかがわせる[16][17]
  5. ^ 京都滞在で又兵衛はしばしば憐れみを込めた感想を記し、四条河原の若衆踊り見物ではわずかな収入を当てに変わった工夫を凝らし、汗だくで夢中になって演技をする芸能人の姿に自分の生き様を重ね合わせ、「世の中をわたるほどかなしきものはあらじ(世の中を渡るほど悲しいものはない)」と嘆いた。建仁寺近くの埋葬場へ行った際、煙が立ち上るのを見て「思ひやられて悲しかりけり(母とされるだしの辞世の句の末の句)」と口ずさんで涙ぐんだり、豊国神社へ参拝した時は華麗な社殿が朽ち果てた有様を見て、「久しからぬ命のうちにさかへおとろへを見るこそあはれなりけれ」と感慨に耽る、3月5日の惜別で別れの歌を詠み上げられた時には田舎(越前)で老いた自分の境遇への嘆きに転じるなど、又兵衛の心情が至る所で書かれている[18][19]
  6. ^ 東海道での旅でも感想や歌を記し、関宿では客呼び込みが上手くいかず軒の柱にもたれる飯盛女を皮肉った歌(白き物を顔に塗りつつ人止むる女や関の地蔵なるらん)を詠む、四日市宿で「いつの世にいつをよき日の日どりにて四日市場とここをいふらん」と詠む、桑名宿で珍しい魚を買って調理し、海に近い海女の家に借りた宿で食べたこと、七里の渡しを突風の中で船で越えて無事だったことを詠む(船よりも熱田の宮を拝まずば荒き浪風いかでしのがん)、晴れ渡った空に「鏡を掛けたるようにきらきらと見え渡る」薄紅色の富士山に夢中になって眺め感激したことなどを書いている。一方で八橋を見て無様な現状に落胆する、小夜の中山を越えようとして雨風に視界を遮られ、悔しさを込めた歌を詠む(雨に風夕べの雲も立ち覆ひあやなく越ゆるさよの中山)など、期待外れや災難なども日記に書いている[23][24]。なお、廻国道之記には京都から又兵衛に同行した友人の存在が記録されているが、この人物の素性は明らかになっていない[25]
  7. ^ 江戸住まいの晩年に書かれたと推定されるこの手紙には、又兵衛の悩みが愚痴として表れている。宛先は不明だが懇意の大名宛と推定される手紙の内容は、弥五右衛門の内儀に金を騙し取られた1件を解決してくれた感謝のお礼と、瘧を患ったこと、依頼された屏風制作が間に合わなかったことが記され、又兵衛の晩年は苦労の連続であることがうかがえる[31][32][33]
  8. ^ 藤懸は笹川の失脚後も又兵衛否定論者であり続け、昭和9年から昭和16年(1941年)まで東京帝国大学教授を務め、退官後の昭和20年(1945年)に国華の主幹となり、日本浮世絵協会会長・文化財審議会専門委員(後に会長)や東京国立博物館評議員も務め、亡くなるまで美術界の権威であった[66][67]。それにより藤懸の又兵衛否定論の影響が大きくなり、助手の楢崎宗重と共に又兵衛研究をリードした藤懸は、昭和18年(1943年)刊行の『浮世絵の研究 上中下』と昭和24年(1949年)刊行の国華5月号の記事でも否定論を繰り返し、藤懸と楢崎が関与した美術館の又兵衛展覧会では又兵衛風絵巻群は取り上げられなかった[68]。藤懸の権力におもねる姿勢は河上肇から皮肉られ、砂川幸雄や辻惟雄は又兵衛論争が始まる前の藤懸の言動に触れ、大正11年(1922年)の国華の記事では肯定論者だったのに、否定論者に転換して自分の主張を撤回したり矛盾した学説を唱え続ける言動を批判している[69][70]。なお、論客の1人だった春山は昭和6年の発表以後は論争から手を引き、法隆寺金堂壁画や日本絵画史の研究と出版に没頭して余生を送った[71]
  9. ^ 辻が又兵衛を研究した理由は、修士論文のテーマに指導教官だった山根有三から又兵衛を勧められたからであり、藤懸の教え子だった山根は肯定論に傾いていたが、師を憚り主張を控えた代わりに辻を又兵衛研究へと引き入れた[74][75]。絵巻群や落款の有無で分かれる又兵衛(勝以)の作品を比較研究したり、遠碧軒記や廻国道之記など又兵衛関係の資料も研究した辻は昭和45年(1970年)に研究成果をまとめた本『奇想の系譜』を刊行、翌昭和46年(1971年)に藤懸の否定論を批判するまでになった。こうした状況に遭遇した楢崎は同年刊行された国華の7月号で、藤懸から引き継いだ否定論を撤回した[76][77]
  10. ^ 辻は昭和36年(1961年)の学会発表で「山中常盤物語絵巻」を又兵衛作とする一方、舟木本を又兵衛ではなく彼以前の又兵衛前派の作だと主張、昭和45年の著作『奇想の系譜』でもこの見方は変わらなかった。だが平成16年(2004年)の山下裕二との対談、平成18年(2006年)の佐藤康宏との対談で、舟木本が勝以(又兵衛)作との繋がり・連続性が多く見られるとの指摘を受け、舟木本と山中常盤物語絵巻と比較して見た結果、舟木本の左隻第五扇に描かれた口を開けていなないている馬と、山中常盤物語絵巻の巻三に描かれた子供に手綱を引かれて口を開けている馬が似ていることを発見、平成20年(2008年)の著作『岩佐又兵衛』で辻は主張を撤回し舟木本を又兵衛作とした[51][81][82]
  11. ^ なお、美術史家の佐藤康宏は以下のような主張を行っているが、光明院が毛利氏と由来が深いとする宮島新一の全く根拠の無い説に依拠したものとして黒田により厳しく批判された[98]。しかし、この豊国祭礼図が光明院に伝来したという確証はなく、佐藤は平成29年の辻との対談でこの点を指摘している[99]。廣海伸彦は、高野山大徳院に存在したと『紀伊国風土記』と『古画備考』が記録する豊国祭礼図こそが現存する作品に該当するのではないかと提言する。そうであるなら佐藤や廣海の解釈にはなお成立の余地があろう。
    〜発注者は装飾の特徴や伝来経緯から松平忠直だと想定できる。徳川一門の忠直が、豊臣氏の祭礼を描かせるのは矛盾しているように思われるが、忠直は幕府に否定的で後に配流された人物でもある。忠義は、霊廟に祀られた秀吉に幕府の創設者徳川家康を仮託し、秀吉の遺言に背いて豊臣家を根絶やしにし豊国神社の破却を命じておきながら、自分の死後は東照大権現として祀らせるという家康が行った矛盾した二番煎じを、徹底したパロディとして表現するのが主眼だった[100][101]。〜
  12. ^ MOA美術館蔵の絵巻は「堀江巻双紙」、それ以外の絵巻は「残欠本」の2種に分かれる。前者は後者より短いことからダイジェスト版と推測されるが、一部別の絵巻から採った場面が見られることから、堀江物語絵巻は堀江巻双紙・残欠本の他に共通の祖本となるもう1本があった可能性が指摘される。残欠本は忠昌治下かそれ以後に、又兵衛の直接の監督無しに弟子が制作を担当、堀江巻双紙は更に下った時代の工房作と推定される[111][112]。黒田は堀江物語絵巻を含む絵巻群は忠直治下に作られたと主張(後述)、残欠本と堀江巻双紙の主人公(若君)の表現の違いに注目、前者は若君が目まぐるしく姿が変化するのに対して、後者は変化が少なくすっきりした表現になっていることを指摘、残欠本はまだ絵巻制作に慣れていない最初期の習作で、堀江巻双紙は残欠本の作り直しだと捉えている[113]
  13. ^ 黒田は辻が絵巻群の注文主の解明をなおざりにしていると批判、注文主を忠直と捉え、5つの観点から忠直の関与なくしては絵巻群が出来ないと主張している(1.絵巻の豪華絢爛な装飾性は忠直の財力と希望による、2.山中常盤物語絵巻以外の作品にある同じ場面の反復・劇的場面に見られるリアルで生々しい表現は忠直が求めた表現、3.特に父母の死と主人公の復讐場面を表現することを求めた、4.堀江物語絵巻の初期作「残欠本」より山中常盤物語絵巻が完成度が高いことに注目、残欠本を試作ないし習作と仮定し、最初に作らせた絵巻が残欠本で次が山中常盤物語絵巻、5.隠居・配流された後の忠直には次々と絵巻注文が出来ないので、絵巻群の大部分は配流された元和9年(1623年)以前に制作された可能性がある)[120]。また不行跡で隠居・配流させられる前の忠直の心理状態を推測した黒田は、叔父かつ舅の江戸幕府2代将軍徳川秀忠や従妹かつ妻で秀忠の娘勝姫への不満が絵巻群制作と結びついていたと考え、山中常盤物語絵巻を除く絵巻群には夫婦の契りと妻の貞節が描かれている点に注目、忠直は出来上がった絵巻群を勝姫と侍女たちに見せて、秀忠に背いて夫である自分の側に立つ(貞節)ことを求めて説得したと推測している(史実では逆に勝姫は秀忠の側に立ち忠直から離れた)[121]
  14. ^ 制作年代の上限の絞り込みは戸田浩之、四辻秀紀、澤田和人、深谷大、志賀太郎らが絵巻群の研究で進め、忠直の子孫に当たる津山藩に伝来した山中常盤物語絵巻・浄瑠璃物語絵巻・堀江物語絵巻(残欠本)の詞書・見返し(菊に流水文様)が村松物語絵巻と同じ点、元和4年(1618年)に忠直が家臣の中川右京に与えた稲富流砲術の伝書の見返しにも菊に流水文様が使用されていることから、4つの絵巻群制作年代は元和年間に絞られ、注文主が忠直である可能性が強まった[125]。更に黒田は小栗判官絵巻・堀江物語絵巻(堀江巻双紙)・熊野権現縁起絵巻も忠直が注文したと推測、深谷が津山藩伝来の愛山文庫(津山郷土博物館)から4つの絵巻群の詞書の写本を多数発見したことに触れ、絵巻群も津山藩に伝来していて、小栗判官絵巻もが所有していたが流出して池田長準の手に渡り皇室へ献上されたとする仮説を唱えた[126]。残る堀江巻双紙・熊野権現縁起絵巻も詞書の筆跡が5つの絵巻群と極めて似ていることを発見、筆者は忠直の周辺にいる人物と特定、忠直注文主説を補強した[127]。ちなみに、絵巻群は忠直が配流先の豊後まで持参、亡くなるまで持っていたと黒田は推測、死後は忠直の息子松平光長の許に運ばれ、子孫である津山藩が保管し続けたとしている[128]

出典

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岩佐又兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:58 UTC 版)

へうげもの」の記事における「岩佐又兵衛」の解説

血気盛んで我の強い若き絵師荒木村重の子有岡城の戦い一族郎党信長の命で殺害されるが、乳母助け出され奇跡的に生き残る関西弁を喋る。

※この「岩佐又兵衛」の解説は、「へうげもの」の解説の一部です。
「岩佐又兵衛」を含む「へうげもの」の記事については、「へうげもの」の概要を参照ください。

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