飯盛女とは? わかりやすく解説

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めしもり‐おんな〔‐をんな〕【飯盛(り)女】

読み方:めしもりおんな

江戸時代宿駅宿屋旅人給仕をし、売春兼ねて行った女。飯盛り


飯盛女

読み方:メシモリオンナ(meshimorionna)

江戸時代旅宿にあった公認私娼

別名 飯盛食売女、宿場女郎おじゃれ


飯盛女

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/13 15:08 UTC 版)

飯盛女の墓(神奈川県藤沢市永勝寺境内)藤沢宿旅籠小松屋が建てたものである。
恋川笑山『東海道五十三次』より「小田原」[注釈 1]

飯盛女(めしもりおんな)または飯売女(めしうりおんな)は、近世(主に江戸時代を中心とする)日本宿場に存在した私娼である。宿場女郎(しゅくばじょろう)ともいう。

江戸時代、娼婦江戸吉原遊廓ほか、為政者が定めた遊廓の中のみで営業が許されていたが、飯盛女に限っては「宿場の奉公人」という名目で半ば黙認されていた。飯盛女はその名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者[注釈 2]も指しており、一概に「売春婦」のみを指すわけではない。

呼称

「飯盛女」の名は俗称であり、1718年以降の幕府法令(触書)では「食売女(めしうりおんな)」と表記されている。一般に出女(でおんな)・留女(とめおんな)・宿引女(やどひきおんな)・おじやれ(「おいで」と客を呼ぶことから)・針筥(はりばこ、下諏訪地方での呼び名)など、地方によって色々な呼び方があった[1]

概説

17世紀宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達した。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置いた。やがて宿場は無償の公役や商売競争の激化により、財政難に陥る。そこで客集めの目玉として、飯盛女の黙認を再三幕府に求めた。当初は公娼制度を敷き、私娼を厳格に取り締まっていた幕府だったが、公儀への差し障りを案じて飯盛女を黙認せざるを得なくなった。しかし、各宿屋における人数を制限するなどの処置を執り、際限のない拡大は未然に防いだ。1772年には千住宿板橋宿に150人、品川宿に500人、内藤新宿に250人の制限をかけている[2]

また、都市においては芝居小屋など娯楽施設に近接する料理屋などにおいても飯盛女を雇用している。料理屋は博徒など無法者の集団が出入りし、犯罪の発生もしくは犯罪に関係する情報が集中しやすい。その一方で、目明かし(岡っ引)などが料理屋に出入りし、公権力との関わりをもっていた。この料理屋には飯盛女が雇用されていたが、これは公権力への貢献のために黙認されていたと考えられる[3]

飯盛女が亡くなると投げ込み寺に捨てられ無縁仏となるのが常であったが、府中宿 (甲州街道)称名寺には珍しく飯盛女のがある[4]


代表的な宿場町

浅間三宿

江戸時代、中山道沿いの浅間山麓の三宿(軽井沢宿沓掛宿追分宿)は、参勤交代制が契機となって発展し、旅籠・茶店とともに軒数も多く、繁盛していた[5]。これら旅籠等では、雇人として飯盛女(白首ともいう)を抱え、宿泊者を接待するのが例であり、結果、特に軽井沢宿追分宿では、男性人口に比して女性人口が大幅に上回っていた[5]。1665年(寛文5年)に、旅籠に遊女をおくことが禁止されたため、軽井沢宿追分宿では、遊女を飯盛女と呼んで、従来通り遊女を抱えていたと言われる[5]。これら飯盛女は、凶作等で窮した際に、娘を奉公に出し金策を講じた貧農出身者がほとんどで、地元出身の婦女は稀であった[5]。例えば、追分宿で働いていた飯盛女の出身地は、1872年(明治5年)の調査では、尾張・美濃・信濃・越後・江戸の順であり、生家の職業は農業が多く、年齢は15-30歳が最も多かった[6]。飯盛女を相手にするものは、多くが宿場を通る旅人であったが、近郷の青年達もいた[5]。結果、妻として身請けされるものもいたが、病に倒れ、一生を終える者も多く、これらの者を埋めた合同墓地が複数存在する[5]。鉄道開通以降、浅間三宿は衰退したが、うち追分宿では、油屋・永楽屋の主人等が発起人となり、小諸に遊郭を造ろうとするも許可が下りず、最終的には佐久の岩村田花園町に移転し、岩村田遊郭を形成した[7]

脚注

注釈
  1. ^ 「めしもり 七百文」の記述
  2. ^ 一般的には老いて客を取れなくなった老娼(としま) や、客を取るには幼い少女などが給仕や雑用に従事した
出典
  1. ^ 唐木伸雄『信濃路の十返舎一九』信毎書籍出版センター(1986年9月発行)、170ページ
  2. ^ 今戸榮一 『目で見る日本風俗誌6 宿場と街道』 p155 日本放送出版協会 1984年
  3. ^ 髙橋修 「近世甲府城下料理屋論序説」『甲州食べ物紀行』 山梨県立博物館 2008年
  4. ^ 甲州街道の遊郭
  5. ^ a b c d e f 柿本正康『軽井沢に想う:その歴史と展望』ドメス出版刊(1987年3月発行)、53-56ページ
  6. ^ 唐木伸雄『信濃路の十返舎一九』信毎書籍出版センター刊(1986年9月発行)、113ページ
  7. ^ 小宮山利三『軽井沢三宿の生んだ追分節考』信野教育会出版部刊(1985年発行)、269ページ

参考文献

  • 五十嵐富夫『飯盛女』1981
  • 下重清「飯盛女とはどのような存在だったか」『争点日本の歴史』1991

関連項目

  • 大宮宿 - 飯盛女・千鳥の悲劇と女郎地蔵。
  • 上尾宿 - 飯盛旅籠が多く、それを目当てに集まる客によっても賑わった宿場。そのような宿場は他にも少なくなかった。
  • 桶川宿 - 女郎買い地蔵の訓。
  • 軽井沢宿 - 飯盛女で賑わい、飯盛女が旅人との別れをしのんだ二手橋、飯盛女を詠んだ川柳で知られる宿場町
  • 追分宿 - 多数の飯盛女を抱えた油屋が有名
  • つるや旅館 - 軽井沢宿の休泊茶屋。十返舎一九の『金草鞋』に飯盛女との関わりが描写されている。
  • 遊女
  • 日本における売買春


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