大宮宿
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大宮宿(おおみや-しゅく)は、日本の近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町。中山道六十九次(または木曾街道六十九次)のうち江戸・日本橋から数えて4番目の宿場(武蔵国のうち、第4の宿[2])。
- ^ 「きそ-かいどう おおみや-しゅく ふじ-えんけい」 中山道の一般名称、俗称である木曽街道の名前で中山道各宿の様子が描かれた名所絵(浮世絵風景画)『木曽海道六十九次』の1枚。
- ^ 現在では、埼玉県に属する第3の宿。
- ^ 宝亀2年(西暦771年)10月27日以前は東山道武蔵国足立郡。
- ^ 『大宮市史』第3巻上、658-659頁。史料は天明6年8月『当宿七組発端 御支配年数、原地発之事、并新堀之訳迄』。
- ^ a b “博物館だより 第12号”. 国立国会図書館. 埼玉県立歴史と民俗の博物館. 2022年2月25日閲覧。
- ^ 『当宿七組発端』(『大宮市史』第3巻上、658-659頁)。
- ^ 『北沢家家譜』(『大宮市史』第3巻上、659頁)。
- ^ 『当宿七組発端』(『大宮市史』第3巻上、658-659頁)。
- ^ 『当宿七組発端』・『北沢家家譜』(『大宮市史』第3巻上、658-659頁)
- ^ 『中山道宿村大概帳(なかせんどう しゅくそん-だいがいちょう)』に基づく。『宿村大概帳』とは、幕府の道中奉行所が調査した五街道とその脇街道の宿場の記録で、53冊が収蔵されている。各宿場の人口、家数、本陣、旅籠の数、高札の内容、道路の広さ、橋、寺社、地域の産業、特産品など、宿場と街道筋の村落の状況が詳しく記載されており、五街道分間延絵図とともに道中奉行所が用いたものらしい。成立年代不明ながら、天保から安政(1840年代から1850年代)にかけての調査と考えられている。
- ^ 「浦和宿#宿場より市場の賑わい」が詳しいので参照のこと。
- ^ 五拾市、五十市、五十の市、五・十の市。
- ^ ただし、史実の安藤惟要は老齢によって天明8年(1788年)に職を辞すまで奉行職を全うし、寛政4年6月19日(1792年)、78歳で亡くなっている。
- ^ めい-さつ。名高い寺。
- ^ とうこう-ぼう ゆうけい。紀州は熊野那智東光坊の阿闍梨・祐慶。
- ^ ぶんじん-ぼっかく、ぶんじん-ぼっきゃく。詩文や書画などの風流に親しむ人。「文人」は詩文・書画などに親しむ人。「墨客」は書画をよくする人。
- ^ 栗原助左衛門家、栗原定右衛門家、栗原友右衛門家。
- ^ 甲斐武田氏の遺臣の一族。「栗原氏 - 戦国大名家一覧」も参照。
- ^ 1里=3.9272727km、1町=0.1090909km、間=0.0018181818km。 135里=530.181814km、24町=2.6181816km、8間=0.0145454544km。135里+24町+8間=532.814541km。
- ^ 7里=27.4909089km、16町=1.7454544km。7里+16町=29.2363633km。
- ^ 1里=3.9272727km、10町=1.090909km。1里+10町=5.0181817km。
- ^ 2里=7.8545454km。
- ^ 128里=502.690906km、8町=0.8727272km、8間=0.0145454544km。122里+8町+8間=503.578179km。
- ^ 徒歩については「歩く」「徒歩旅行」を参照。短い距離を想定した現代の不動産業の基準値は、時速4.8km(「徒歩所要時間」参照)。
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