大宮宿の設置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 17:52 UTC 版)
中山道の前身となる街道は、戦国時代に後北条氏によって整備されたが、その時代には浦和宿の次が上尾宿となり、大宮は両者の中間点で馬継ぎをする場であった。またその街道は、一の鳥居から氷川神社の参道を通り、神社の前で折れて迂回していた。神社の鳥居前、参道沿いに既に町と呼べる集落があったようである。 大宮宿の脇本陣の主であった栗原家が伝えるところによると、天正19年(1591年)に栗原次右衛門保逢が地子免許と引き替えに宿役を勤めると願いを出した。免税は受け入れられなかったが、これを機に大宮宿が設けられたという。宿の名は氷川の大宮、すなわち氷川神社にちなむ。この年は徳川家康が北条氏にかわって関東地方を支配するようになって間もなく、他の宿場の整備年代との関連で、もう少し年代が下るのではないかと言われる(文禄年間から慶長7年頃)。 当初の大宮宿は、大門通りと呼ばれた参道沿いに、宮町、中町、下町と続く3つの町からなった。寛永元年(1624年)には、1キロメートル北東の寿能城跡に屋敷を構えていた北沢甚之丞直元が42軒の村民とともに移住し、大門町を開いて4町となった。
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