鴻巣宿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 04:10 UTC 版)
鴻巣宿(こうのすじゅく[1]、こうのすしゅく[2])は、江戸時代に整備され、栄えていた宿場町である。中山道六十九次(木曽街道六十九次)の内江戸・日本橋から数えて7番目、すなわち武蔵国のうち第7の宿である(現在の埼玉県域では6番目)。
注釈
- ^ 「きそ-かいどう こうのす ふきあげ-ふじ-えんぼう」 当時木曽街道と呼ばれた中山道の名所を描いた名所絵(浮世絵風景画)『木曽街道六十九次』の1枚。
- ^ 畦道(あぜ-みち)や縄のように真っ直ぐに延びた小径(こ-みち)を言う。
- ^ 宝亀2年(西暦771年)10月27日以前は東山道武蔵国足立郡。
- ^ 『中山道宿村大概帳(なかせんどう しゅくそん-だいがいちょう)』に基づく。『宿村大概帳』とは、幕府の道中奉行所が調査した五街道とその脇街道の宿場の記録で、53冊が収蔵されている。各宿場の人口、家数、本陣、旅籠の数、高札の内容、道路の広さ、橋、寺社、地域の産業、特産品など、宿場と街道筋の村落の状況が詳しく記載されており、五街道分間延絵図とともに道中奉行所が用いたものらしい。成立年代不明ながら、天保から安政(1840- 1850年代)に掛けての調査と考えられている。
- ^ 人馬を出しにくい小規模な宿駅で、近隣の村を1- 2箇所加えたものを言う。
- ^ 1里=3.9272727km、1町=0.1090909km、間=0.0018181818km。 135里=530.181814km、24町=2.6181816km、8間=0.0145454544km。135里+24町+8間=532.814541km。
- ^ 12里=47.1272724km、8町=0.8727272km、6間=0.0109090908km。12里+8町+6間=48.0109087km。
- ^ 30町=3.272727km。1里+30町=7.1999997km。
- ^ 4里=15.7090908km、6町=0.6545454km、40間=0.072727272km。4里+6町+40間=16.4363635km。
- ^ 123里=483.054542km、16町=1.7454544km、6間=0.0109090908km。123里+16町+6間=484.810905km。
- ^ 徒歩については「歩く」「徒歩旅行」を参照。短い距離を想定した現代の不動産業の基準値は、時速4.8km(「徒歩所要時間」参照)。
出典
- ^ 埼玉新聞社 著『埼玉大百科事典』〈2〉き-しゃ、埼玉新聞社、1974年、242頁。ASIN B000J9ECRY。
- ^ 平凡社地方資料センター 編『日本歴史地名大系 11 埼玉県の地名』平凡社、1993年、298頁。ISBN 4-582-49011-5。
- ^ a b c d e f 藤島 1997、56-57頁
- ^ a b 藤島 1997、47頁
- ^ a b c d e f g 北本市教育委員会 編『北本のむかしといま』北本市教育委員会、1996年、141-142頁。
- ^ “北本の地名の起こり”. 北本市. 2016年8月8日閲覧。
- ^ 北本市教育委員会 編『北本市史 第1巻 通史編』北本市教育委員会、1994年、655頁。
- ^ 鴻巣市 2004、184頁
- ^ 藤島 1997、50頁
- ^ 鴻巣市 2004、177-178頁
- ^ 藤島 1997、49頁
- ^ a b c d e 亀井千歩子ほか『中山道を歩く改訂版』山と溪谷社〈歩く道シリーズ 街道・古道〉、2006年、21-25頁。ISBN 4-635-60037-8。
- ^ 鴻巣市市史編さん調査会 編『鴻巣市史 通史編 1 原始・古代・中世』鴻巣市、2000年、49頁。
- ^ a b 水村孝行『さきたま文庫11 勝願寺 鴻巣』さきたま出版会、1989年、12-17頁。ISBN 4-87891-211-1。
- ^ 藤島 1997、55頁
- ^ a b 鴻巣市 2004、18-19頁
- ^ a b 西野博道『続・埼玉の城址30選』埼玉新聞社、2008年、62-67頁。ISBN 978-4-87889-297-4。
- ^ 鴻巣市 2004、26頁
- ^ 鴻巣市 2004、27頁
- ^ 鴻巣市 2004、28頁
- ^ a b c d 創立10周年記念実行委員会 編『鴻巣ふるさと散歩』鴻巣青年会議所、1985年、10頁。
- ^ a b “鴻巣びな”. 鴻巣市商工会. 2016年8月8日閲覧。
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