長谷川宣以
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長谷川 宣以(はせがわ のぶため)は、江戸時代中期の旗本。寛政の改革期に火付盗賊改役を務め、人足寄場を創設した。通称は
注釈
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』の、公年50(幕府に届け出た年齢。実際の年齢は私年という)で寛政7年5月19日死去という記述からの逆算。瀧川政次郎は著書で「延享二年に平蔵は呱々の声をあげたと、私は断定する」[1]と記し、重松一義も著書で「延享二年生説が妥当と考えられよう」[2]と記している。釣洋一によれば、諸書が生年を延享2年(1745年)とするのは数え年と満年齢の差を考慮していない誤りで、正しくは延享3年(1746年)であるという[3]。
- ^ 5月19日の死去は『寛政重修諸家譜』による。菩提寺の戒行寺に残る霊位簿の記録では5月10日である。死去の日付が異なる理由は、10日に死去した直後には喪を発せず、御役御免を願い出て許可を得た後、19日になって喪を発したためである[4]。
- ^ 鬼平は池波正太郎が「あれは私が作ったんです」[5]と述べているように、当時そう呼ばれたわけではない上にあだ名でもない。
- ^ 瀧川政次郎は、この某氏は長谷川家の上総にあった采地から奉公に出ていた女(農家からの奉公)であるとしている[6]。なお、釣洋一は瀧川の「人足寄場史」を引き、宣以の祖父・長谷川宣尹の知行所・戸村品左衛門の娘ではなかったかとしている。釣によれば、菩提寺・戒行寺の過去帳には宣以の死の4日前に「妙雲日省」という女性が長谷川家で没したことが書かれており、この「妙雲日省」なる女性は宣以母の戸村品左衛門の娘であろうとしている。この平蔵母の実名は不明だが、戒名から推測して「
於妙 ()」とでも言ったのではないかと西尾忠久は推定している[7]。なお、小説『鬼平犯科帳』では生母は早く没し、継母と平蔵の中が悪かったためにぐれたという設定にしているが、西尾は池波の『寛政譜』の誤写からくる誤りとし、継母(名不明)のほうが早世し、平蔵の死の4日前まで生存していた生母の方が長命したことは確実とする。 - ^ 『寛政重修諸家譜』では銕三郎だが、息子宣義が幕府に提出した『先祖書』では銕次郎と記されている[3]。
- ^ 200俵取りの御船手であった[8]。
- ^ 『京兆府尹記事』に「本所の銕と仇名せられ、所謂通りものなりける」とある[9]。長谷川家は19歳頃に宣以出生地の築地から隅田川対岸の本所に移ったが、その時点で「本所の銕」といわれていたことから、幼少の頃から不まじめな生活を送っており、地元のワルとして名前が通っていたのではないかという推測もある[10]。
- ^ 長谷川宣雄は先手弓頭時代の明和8年(1771年)10月から1年間、火付盗賊改本役を命ぜられている。
- ^ 『京兆府尹記事』にある逸話[10]。
- ^ 足高600石を加増されている。
- ^ 同じ火附盗賊改役の松平定寅・森山孝盛らが事あるごとに平蔵を誹謗中傷していたという。『よしの冊子』や、森山の著書『蜑の焼藻』などに平蔵の悪評が残る[7]。
- ^ 逮捕後わずか10日の処刑は江戸時代でも最速の記録であり、婦女暴行の被害者に対する配慮から行ったことであろうとしている[12]。
- ^ 宣以の先祖である宣次の弟・正吉の家系。
出典
- ^ 瀧川 1994, p. 14.
- ^ 重松 1999, p. 61.
- ^ a b 釣 2006, p. 208.
- ^ 瀧川 1994, p. 126.
- ^ 『実録鬼平犯科帳のすべて』
- ^ 瀧川 1994, p. 16.
- ^ a b 西尾 2000.
- ^ 釣 2006, p. 202.
- ^ 瀧川 1994, p. 38.
- ^ a b c 重松 1994.
- ^ a b c 山本 博文『武士の人事』KADOKAWA、2018年11月10日。
- ^ 名和 1994.
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第八百六十五
- ^ 高木久史『通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで』中央公論新社、2016年8月25日、148頁。
- ^ 高澤 憲治『松平定信(人物叢書)』吉川弘文館、2012年9月1日、103頁。
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- 2 長谷川宣以の概要
- 3 フィクションにおける長谷川平蔵
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