人足寄場の設立
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長谷川宣以の名が歴史に残ったのは人足寄場の創設に貢献したことが大きい。後年定信が執筆した自叙伝「宇下人言」には、人足寄場の設置を次のように書いている。 「かつ寄場てふ事出来たり、享保の比よりしてこの無宿てふもの、さまざまの悪業をなすが故に、その無宿を一囲に入れ置き侍らばしかるべしなんど建議もありけれど果さず、その後養育所てふもの、安永の比にかありけん、出で来にけれどこれも果さず、ここによって志ある人に尋ねしに、盗賊改をつとめし長谷川何がしこころみんといふ」 人足寄場以前、幕府は無宿人対策として宝暦9年(1759)に江戸の無宿人達を捕らえ佐渡金山の人足として送り込む制度をはじめた。しかしこの対策にも限界があった。さらに田沼の時代、安永9年(1780年)に南町奉行牧野成賢が深川茂森町に設立した無宿養育所というものを設置した。定信はこの無宿養育所について言及しているが当時は千数百人と捕らえ放り込んだが、そのうち千人以上が死んだという。定信はこれら過去の無宿人対策を参考に人足寄場の制度を考えたと思われる。そして「志ある人」を募ったところ名乗りをあげたのが長谷川宣以であった。寛政元年(1789年)そうして名乗りを上げた宣以は「寄場起立」と題した建議書を定信に提出し認められたことにより宣以が指揮をとることとなった。 人足寄場の初年度の予算は米五千俵・金五百両と限られていた。また、巷に溢れかえっている無宿の可及的速やかな掃討が望まれていた。そのためには収容所をなるべく短時日かつ安価に作り上げなければならなかった。宣以は予算節約の為に地ならしなどの寄場建設作業を寄場人足にやらせ費用節約に勤しんだ。翌年、人足寄場の費用は米三千俵・金三百両と減らされた。この窮状を打破すべく宣以は定信の許可を得て官費を元に銭相場を使い寄場の費用を賄おうとした。宣以が行った銭相場を使った収入策について、日本中世・近世史を専門とする高木久史が自書「通貨の日本史」の中で説明している。高木は「(定信は)銭高への誘導も図った。実務を担ったのが火付盗賊改・長谷川宣以(平蔵)である(中略)ではなぜ平蔵は導いたのか。財政収入が目的である。銭安のときに銭を買い上げて流通量を減らし、銭高になったところで銭を支出すれば利益が出る。その利益を人足寄場の維持費にあてた」と書いている。 寄場内には病人小屋一棟も作られた。門、役所、見張番所を設け、対岸の江戸市街と連絡するため対岸の本湊町には舟着場が特設され、寄場には井戸も掘り、熱病を煩う者が多いため人足が希望したというので、稲荷の小祠まで建てられている。寄場内の収容者は大工、建具、塗物、紙漉き、米搗き、油絞り、牡蠣殻灰製造、炭団作り、藁細工などに従事した。これらの作業に対しての賃金の内の3分の1は強制的に積み立てさせられ、出所時に生業復興資金として渡された。 人足寄場の取り組みは今でいう軽度犯罪者・虞犯者に対して教育的・自立支援的なアプローチだった。定信は人足寄場と宣以について「宇下人言」においてこう語っている「この人足寄場によって無宿人たちは自然と減り、犯罪も少なくなった。 すべて長谷川宣以の功績である。長谷川は利益を貪るために山師のような悪行をすると人々が悪く言うが、そうした者でないとこの事業は行えない」。
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