松平忠昌とは? わかりやすく解説

松平忠昌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/23 04:43 UTC 版)

松平 忠昌(まつだいら ただまさ)は、江戸時代前期の大名越前福井藩(北ノ庄藩)3代藩主[注釈 1]。福井松平家の祖。官位正四位下参議伊予守


注釈

  1. ^ 公式には福井藩第3代に数える忠昌以降を(相続時の混乱から)別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えばその系統の初代となる。
  2. ^ 「忠昌の北ノ庄入部に際し、忠直の旧臣に対して越後への同行、北ノ庄への出仕、他家への退転は自由にさせ、約500名の家臣のうちの105名が忠昌に出仕し、大部分の家臣は光長に随って越後高田藩臣となった。また老臣のうち、本多飛騨守は大名になり、小栗美作守・岡島壱岐守・本多七左衛門は光長に同行し、大名とする幕命を断った本多伊豆守のみ忠昌に出仕した」とされ[12]、忠昌の寛大さを示すとともに、幕府の選抜に漏れた家臣らは光長に同行したとも推測される。また、この叢記の記述中の「大部分の家臣」に関しては、忠昌継承時に他の兄弟(直政、直基、直良)もそれぞれに越前国内に藩を成立させたが、それらを含む諸藩に再仕官した家臣らもおり、選抜に漏れた残りの全てが高田藩に再仕官したわけではないという、史実との少々の相違に留意。例として、直良の立藩に従った津田信益や、幕臣となった島田成重がいる。
  3. ^ 忠昌にとってこの転封は倍増だったが、福井藩自体は領地が18万石削減されることになった(68万石→50万石)。その分は忠昌の3人の弟(直政・直基・直良)と富正の従兄弟で附家老の1人だった本多成重などに与えられ、直政・直基・直良はそれぞれ大野藩5万石・勝山藩3万石・木本藩2万5000石、成重は丸岡藩4万8000石、若狭小浜藩京極忠高敦賀郡2万2000石を分与された[4]
  4. ^ 「貞享年中之書上ニハ継中納言之遺跡与申儀無之、賜越前国与計認有之候間此度も継遺跡と申儀ハ相除可被指出候事」[13]とあって、光長が忠直の旧跡を相続したと記述されることがあるが、寛政12年(1800年)に福井松平氏に対して幕府は同系図の修正を命じ、幕府の指示・見解に沿う形で福井松平氏では越前家の歴代より光長を排除する作為を系図に加えており、光長の一旦相続は幕府の公式見解ではなくなった。
  5. ^ 津山松平氏家譜 元和9年2月10日条に光長が「家督を承け祖父以来のノ遺跡一円領知スヘキノ旨を命セラル」とあり[14]、同年7月幕府国目付が北ノ庄へ来着し、台命を伝達した奉書中に「忠直仕置等万事不相届故を以て越前国仙千代丸ニ被仰付」とあり[15]、忠直から光長への北ノ庄藩の継承があったと津山藩は主張していることが窺い知れる。「光長は明らかに父の遺跡を継いだといわねばならない」「細川忠利は『越前御国替に罷り成り』(寛永元年五月晦日付披露状『細川家史料』)といい、秋田藩の重臣梅津政景も『越前ノ若子様ハ越後へ廿五万石ニ而御国替の由』(『梅津政景日記』寛永元年六月五日条)といっており、当時の大名などもそのように認識していたのである」という見解もあるが[16]、いずれも後世の幕府の公式な見解とは異なる。
  6. ^ 「寛永元年甲子四月十五日以特命続秀康、賜封之内五十万石余」[17]と記され、忠昌の高田からの移動は忠直配流の翌年、1624年であったことがわかる。当主不在となった北ノ庄藩から重臣の笹治大膳が江戸に派遣され、当時江戸に住んでいた仙千代(光長)を3月に越前に迎え入れ、幕府から越前に島田重次高木正次らが派遣され、光長の相続の許可に対する内示があったが、7月29日に幕府から秋元泰朝近藤秀用、曽根吉次、阿倍正之等が派遣され、越前国の冬の気候の厳しさを理由に仙千代ら母子は江戸に帰されることになった。翌年4月、江戸城に越前松平家支流諸家を集めた場にて、幕府の指示により当時高田藩主であった忠昌を忠直の後の北ノ庄藩主とすることが申し渡された。
  7. ^ 殉死した家臣7名は忠昌の墓所の周辺に、忠昌を守護するように各々の墓が建てられている。ただし、そこに葬られたのは各々の頭部のみで、胴体以下は各々の菩提寺に葬られた。殉死7名の子孫は「先祖の功績」として、その後も福井藩で厚遇された。
  8. ^ 源泉温度が低いため、もう少し掘ってみようとしたらしい。この計画は失敗している。
  9. ^ 父は忠昌の家臣で後に五男昌親(吉江藩)の家臣。母親は忠昌の侍医の娘。詳しくは近松門左衛門の項目参照。
  10. ^ 現実問題として、彼らの移転先がなかったせいでもある。
  11. ^ 現実問題として、龍ノ口屋敷のほうが参勤・登城等に至便でもある。
  12. ^ この屋敷は次代光通の頃に大火で消失した。

出典

  1. ^ a b c d 三百藩藩主人名事典三 1987, p. 158.
  2. ^ a b c d e f 竹内誠 & 深井雅海 2005, p. 960.
  3. ^ 舟澤茂樹 2010, p. 58.
  4. ^ a b 舟澤茂樹 2010, p. 50-51.
  5. ^ 舟澤茂樹 2010, p. 58-59.
  6. ^ 舟澤茂樹 2010, p. 59.
  7. ^ 舟澤茂樹 2010, p. 60.
  8. ^ 三百藩藩主人名事典二 1986, p. 48,492-493.
  9. ^ 舟澤茂樹 2010, p. 60-62.
  10. ^ 黒田日出男 2017, p. 143.
  11. ^ 矢野宗喜・雪吹重英・牧野易貞・渥美助左衛門ら
  12. ^ 福井藩により編纂された雑記録(正式な藩史ではない)『国事叢記』
  13. ^ 『越系余筆』井上翼章・文化3(1806)年 松平文庫蔵
  14. ^ 「越前支流美作津山松平」『徳川諸家系譜』第四
  15. ^ 同家譜 元和9年7月29日条徳川家光黒印状
  16. ^ 『福井県史 通史編3・近世一』
  17. ^ 「福井松平家系図」『福井市史 資料編4・近世二』
  18. ^ 舟澤茂樹 2010, p. 49-51,62-63.
  19. ^ 舟澤茂樹 2010, p. 68.
  20. ^ 三百藩藩主人名事典三 1987, p. 158-159.
  21. ^ 舟澤茂樹 2010, p. 64-66.
  22. ^ 「温泉と税」―江戸時代の大安寺温泉―|NETWORK租税史料|税務大学校|国税庁
  23. ^ 松平容頌の逸話集『日新館童子訓』杉田壱岐の涙、および遠藤総越・加藤桃蹊『芳譚』杉田壱岐の忠節より。
  24. ^ 井伊美術館
  25. ^ 辻惟雄 2008, p. 63-90.
  26. ^ 舟澤茂樹 2010, p. 52-53.
  27. ^ 辻惟雄 2008, p. 90,101-103.
  28. ^ 舟澤茂樹 2010, p. 53.
  29. ^ 黒田日出男 2017, p. 208.
  30. ^ 「越前松平家系図」『福井市史 資料編4・近世二』
  31. ^ 舟澤茂樹 2010, p. 63-64.
  32. ^ 三百藩藩主人名事典三 1987, p. 15.
  33. ^ 上越市 みんなのひろば > ふるさと事典 > 太刀 銘助宗(たち めいすけむね)
  34. ^ 風俗画と肉筆浮世絵 - 収蔵品の紹介 - 出光美術館
  35. ^ 洛中洛外図屏風(歴博甲本)
  36. ^ すみだあれこれ/すみだの大名屋敷  福井藩松平家下屋敷


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