松平忠済とは? わかりやすく解説

松平忠済

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/28 16:12 UTC 版)

 
松平 忠済
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 寛延4年8月24日1751年10月13日
死没 文政11年7月26日1828年9月5日
改名 幸之助(幼名)、忠済
墓所 東京都港区虎ノ門天徳寺
官位 従五位下左衛門佐伊賀守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
信濃上田藩
氏族 藤井松平家
父母 父:松平忠順、母:山本氏
兄弟 忠済、為三郎、忠脩、池田輝名
岡部重則室、結子
松平武元
木村氏、小林氏、磯氏、吉野氏
忠英忠和丹羽氏昭正室、光柏院、
岡部長慎正室、永井尚監正室、
相馬樹胤正室、柳生俊睦正室、松平忠徳正室ら
養子∶忠学
テンプレートを表示

松平 忠済(まつだいら ただまさ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名信濃国上田藩4代藩主。官位従五位下左衛門佐伊賀守。伊賀守系藤井松平家6代。

生涯

寛延4年(1751年)8月24日、3代藩主・松平忠順の長男として上田で誕生した。

天明3年(1783年)、父の死去により家督を継ぐ。幕命による普請手伝いや桜田御門番、西の丸大手門番などを歴任したため、藩財政が悪化した。明和6年(1769年)に従五位下・左衛門佐に叙位・任官する。武芸を奨励し、武芸稽古所を創設した。

長男の忠英が早世すると、晩年には家督相続をめぐっての争いが起こり、忠済は分家の忠学を養子として迎え、文化9年(1812年)5月6日に家督を忠学に譲って隠居した。文政11年(1828年)7月26日に江戸で死去した。享年78。

系譜

父母

正室

側室

  • 木村氏
  • 小林氏
  • 磯氏
  • 吉野氏

子女

養子

長男の忠英は嫡子だったが、家督相続前に21歳で死去した。四男の忠和は5代藩主・忠学の養子となったものの、これも23歳で早世し、伊賀守系藤井松平家の嫡流は絶えた。次女が忠学の正室となり、他家に嫁いだ娘は6人いる。





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「松平忠済」の関連用語

松平忠済のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



松平忠済のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの松平忠済 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS