松平忠愛_(上田藩主)とは? わかりやすく解説

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松平忠愛 (上田藩主)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/28 16:09 UTC 版)

 
松平 忠周
時代 江戸時代中期
生誕 元禄14年9月13日1701年10月14日
死没 宝暦8年3月6日1758年4月13日
改名 新十郎・吉六(幼名)、忠殷(初名)、忠愛、忠弘
戒名 歓良院殿泰厳哲道大居士
墓所 東京都港区虎ノ門天徳寺
官位 従五位下左衛門佐伊賀守大内記
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重
信濃上田藩
氏族 藤井松平家
父母 父:松平忠周、母:米倉昌明養女
兄弟 忠愛、鉄次郎、忠容、藤井忠陣、
藤井忠弘、広橋兼顕室、戸川安聡正室、
戸川安聡継室、八幡光清室、木村盛快室ら
本多忠能娘蓮球院
井越氏、杉浦氏、寺島氏、植村氏、大塚氏、松村氏、丑場氏、成瀬氏ら
忠順、忠方、信敏、藤井忠成、信交、
亀次郎、忠亮、忠寄、藤井忠徹室、
板倉勝暁継室、広橋兼胤養女、
竹屋中癖室、向坂政興室、木村盛祥室、
久松定相室、木村盛祥室ら計27人
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松平 忠愛(まつだいら ただざね)は、江戸時代中期の大名信濃国上田藩2代藩主。官位従五位下左衛門佐伊賀守大内記。伊賀守系藤井松平家4代。

生涯

元禄14年(1701年)9月13日、信濃上田藩初代藩主・松平忠周の三男として誕生した。初名は忠殷(ただしげ)。母は米倉昌明の養女。

正徳4年(1714年)に従五位下・左衛門佐に叙位・任官する。享保13年(1728年)、父の死去により家督を継ぎ、忠愛と改めた。このとき、父の遺言で弟の忠容に川中島5000石(塩崎知行所)を分知したため、上田藩は5万3000石となった。

しかし父と違って暗愚だった上、享保15年(1730年)には上田城大火や藩主居館が全焼し、寛保2年(1742年)には水害を被るなどの災害を受けて、幕府から5000石を借り受けて救済に務めた。ところが藩財政再建のため、元文5年(1740年)に検見法から定免法に税制を改正して重税を取り立てたり、茶屋遊びに溺れて藩政を顧みなかったりしている。

寛延2年(1749年)8月2日、家督を長男の忠順に譲って隠居し、大内記忠弘(ただひろ)と改名する。宝暦8年(1758年)3月6日、江戸で死去した。享年58。

系譜

父母

正室

  • 蓮球院 - 本多忠能の娘

側室

  • 杉浦氏
  • 井越氏
  • 寺島氏
  • 植村氏
  • 大塚氏
  • 松村氏
  • 丑場氏
  • 成瀬氏

ほか

子女

  • 松平忠順(長男) 生母は杉浦氏
  • 松平信敏(三男)
  • 松平忠方(四男)
  • 藤井忠成(六男)
  • 松平信交(七男)
  • 松平亀次郎
  • 松平忠亮
  • 松平忠寄
  • 藤井忠徹室
  • 板倉勝暁継室
  • 広橋兼胤の養女
  • 竹屋中癖室
  • 向坂政興室
  • 木村盛祥室
  • 久松定相室
  • 木村盛祥室

正室の本多氏は、どうやら入嫁前に亡くなったようで、そのため忠愛は生涯継室を迎えなかったという。ただし側室は15人おり、27人の子女を儲けたという。

そのうち、長男の忠順家督を継ぎ、次男の忠方は早世した。三男の信敏は分家の旗本5000石を継ぎ、四男、五男は夭逝した。六男の忠成は藤井姓を称し、七男の信交は兄・信敏の養子となって旗本家を継いだ。他家に嫁いだ娘は8人いる。




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