松平定輝
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 宝永5年4月24日(1708年6月12日)[1] または宝永元年(1704年)[2] |
死没 | 享保10年10月2日(1725年11月6日) |
戒名 | 玄万院殿松誉月峯了智大居士 |
墓所 | 桑名市照源寺 |
官位 | 従五位下日向守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 越後高田藩主 |
氏族 | 久松松平家定勝流 |
父母 | 父:松平定逵、母:烏丸光雄娘 |
兄弟 | 定輝、定倫、幾姫ら 養兄弟:千賀姫 |
妻 | 正室:浅野吉長娘 |
子 | 養子:定儀 |
松平 定輝(まつだいら さだてる)は、江戸時代中期の大名。越後国高田藩3代藩主。定綱系久松松平家5代。官位は従五位下・日向守。
略歴
2代藩主・松平定逵の次男。母は烏丸光雄の娘。
享保3年(1718年)、父の死去により跡を継ぎ、同時に叙任する。享保10年(1725年)、越後質地騒動を鎮圧したが、同年10月2日に死去した。享年18(もしくは22)。

跡を叔父・定儀が継いだ。法号は玄万院殿松誉月峯了智大居士。
脚注
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