騒動と判決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/18 04:48 UTC 版)
しかし、同8年3月15日に騒ぎは再燃し、150ヵ村の約3000名の農民が集い、吉岡村(上越市)の市兵衛ら数人が首謀者となって質地奪回のための実力行使に出た。代官所の役人も金主たちもこの一揆勢を止めることはできず、隣接する高田藩に逃げ込み、役人は江戸に救援を要請し、金主たちもこのことを幕府に訴えた。高田藩側では、この騒動が自領にも波及することをおそれ、このまま放置するわけにはいかないので自分たちで取り締まりをする旨、代官所役人と幕府に伝えた。 高田藩以外の隣接諸藩からの要請もあり、幕府は享保9年(1724年)3月11日、頸城郡の天領を高田藩(藩主・松平定輝、10万7000石)・会津藩(藩主・松平正容、7万石)・長岡藩(藩主・牧野忠寿、6万4000石)・館林藩(藩主・松平清武、4万7000石)・新発田藩(藩主・溝口直治、4万3000石)の5つの藩へと分散して預け地とした上で、これらの藩に騒動の鎮圧を命じた。 高田藩主の松平定輝は、家老の服部半蔵・久松十郎右衛門を御用掛とし、質置人の願いを聞き届けるとだまして、出頭した農民の主要人物を捕縛する。他の関係諸藩も強行措置に出て、同年6月30日までに関係者全員が捕えられた。 翌10年(1725年)3月11日に下された判決では、市兵衛以下7人が磔刑・獄門11人・死罪12人・遠島20人・所払い19人・過料28人となり、赦免されたのは9人であった。付加刑として闕所・家財没収となった者は63人で、没収されたのは総石高は97石7斗余、土蔵1棟、馬屋17棟、持仏堂1棟、馬1頭におよんだ。判決時には、処刑の判決を受けた者のうち、半数以上が既に牢内で死亡していた。これら処罰を受けた者たちのほとんどが、4石以下の零細農家であったという。
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