騒乱の序曲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/20 14:02 UTC 版)
弟がナナ・アクワシ・アフレーン・オクペセ(Nana Akwasi Afrane Okpese)としてエドウェソを統治する1880年代から90年代のいずれかの時期に、ヤァ・アサンテワァは王母に任命された(Dictionary of African Biographyによればエドウェソではなくエジス、就任は1887年とされる)。当時は、アシャンティ連合王国が1883年から1888年の内戦など、アシャンティの未来に脅威を与える一連の事件を経た時期であった。1894年に弟が死ぬと、ヤァ・アサンテワァは王母としての権利を行使し、孫のコフィ・テネ(Kofi Tene)をエジス王アフレーン・クマア(Afrane Kumaa)とした。 イギリスが1896年にアシャンティ王(英語版)プレンペー1世(英語版)を含むアシャンティの支配者の一団と共に孫をセーシェルに追放すると、ヤァ・アサンテワァはエジスの摂政になった。プレンペー1世が追放されると、イギリス領ゴールド・コースト総督フレデリック・ミッチェル・ホジソン(英語版)は、アシャンティ国の象徴黄金の床几を要求した。この要求は、アシャンティの残存支配者層によるクマシでの秘密会合へと発展し、王の帰還の安全を如何に図るかが議題となった。この点についての合意はなされなかった。ヤァ・アサンテワァはこの会議に出席し、立ち上がり、現在では有名なこの言葉を発して会議参加者に訴えた。 今皆さんの一部が王の為に戦いに赴くことを恐れているのは分かっています。オセイ・コフィ・トゥトゥ1世(英語版)やオコンフォ・アノキエ(英語版)、オポク・ワレ(英語版)の勇敢な時代なら、指導者は一発も撃つことなく王が連れ去られるのを座視することはないでしょう。以前の白人には、総督が今朝私達に行ったような挑発をアシャンティの指導者にあえて行うことはありませんでした。アシャンティの勇気はこんなものだというのは事実でしょうか。信じられません。あり得ません! このように言うしかありません。あなた方アシャンティの男が征かないのなら、私達が征きます。私達女性が征きます。同志の女性に呼び掛けます。私達は白人と戦います。全員が戦場に倒れるその時まで戦います。 ヤァ・アサンテワァはアシャンティ戦闘部隊の戦争指導者として数多のアシャンティ地域の王によって選ばれた。これは女性がアシャンティ史上この役割を与えられた最初にして唯一の例である。アシャンティとイギリスの「黄金の床几戦争」は、5000人の部隊を擁する王母ナナ・ヤァ・アサンテワァによって戦端を開くことになった。
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