黄金の床几
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 06:41 UTC 版)
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黄金の床几(おうごんのしょうぎ、英語: Golden Stool, トウィ語: Sika 'dwa)は、アシャンティ人の王家が保有する神聖な玉座であり、「民族統合の象徴[1]」である。伝説によれば、アサンテ連合を作った2人のうちのひとりである神官オコンフォ・アノキェが空から床几を出してきて初代の国王オセイ・トゥトゥの膝におろしたという。この種の床几は伝統的に族長の指導権を象徴するものであるが、黄金の床几は生ける者、死せる者、いまだ生まれぬ者を含めたアシャンティ王国の人々すべての魂が住まうと信じられている。
象徴と儀礼
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椅子は持ち主の魂の座であると考えられ、他の魂が通り過ぎるときに休んでしまわないよう、使われていない時は壁に立てかけられることになっている。玉座は決して地面に直接触れてはならず、かわりに毛布の上に置かれる。即位の際には、新しい王を床几の上で持ち上げて降ろすという儀礼を行うが、この時床几に触れてはいけない。アシャンティの最高指導者のみが直接床几を扱ってよいことになっているため、玉座は枕にのせて王のところに運ばれる。
歴史上の紛争
玉座の所有をめぐって何度も戦乱が起こっている。1896年、アシャンティの王プレンペー1世は戦争に負けて玉座も失うことを怖れて国外に退去した。1900年に英領ゴールド・コースト総督であったサー・フレデリック・ホジソンは黄金の床几に座ろうとし、床几を捜索するよう命じた。このせいで黄金の床几戦争と呼ばれる武装蜂起が発生し、結果としてアシャンティ王国は大英帝国に併合されたが、黄金の床几の聖性は保持された。1921年にアフリカの道路工事業者が床几を見つけて金の装飾を剥ぎ取った[2]。犯人は英国により保護観察下に置かれた後、地元の習慣にのっとった裁判にかけられて死刑宣告を受けたが[2]、英国が介入してこの一団は死刑ではなく追放処分となった[2]。 この時、床几について介入をしないという保証が英国から出たため、床几は隠し場所から出されることになった[2]。1935年、黄金の床几はプレンペー2世の戴冠儀礼に用いられた[3]。
外観と細工
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黄金の床几は46センチの高さでカーブを描いた座席がついており、幅は61センチで深さは30センチである。表面は全て黄金の象嵌で飾られており、王に危険が迫っていることを警告するための鈴がかけてある。あまり人目に触れることはなく、数人の王室関係者しか保管場所を知らない。族長の葬儀のためにレプリカが作られることもあり、族長の葬儀の際には世代を超える力の象徴として儀礼的に動物の血で黒く塗られる。現在でもアシャンティの人々にとっては継承と力の象徴として扱われている。
脚注
- ^ 溝辺泰雄「皇太后が率いた反植民地戦争ーアサンテ王国の皇太后ヤァ=アサンテワァと黄金の床几」、高根努、山田肖子編『ガーナを知るための47章』明石書店、2011、pp. 235 - 239、p. 239。
- ^ a b c d Carmichael, John (1993). African Eldorado - Gold Coast to Ghana. Gerald Duckworth & Co. Ltd. pp. 176–77. ISBN 0-7156-2387-7
- ^ Michael T. Kaufman (1999年3月4日). “Opoku Ware II, King of Asante, Is Dead at 89”. New York Times
外部リンク
黄金の床几
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1900年3月25日、フレデリック・ミッチェル・ホジソンは少数のイギリス兵と地元の徴収兵を率いてクマシに到着した。ホジソンは強大なイギリス帝国の代表として伝統的な儀礼に沿い、ホジソンの妻に向けて「女王陛下万歳」を歌う子供たちに迎えられ町へと入城した。そして集まったアシャンティの諸王と族長たちに向けて演説を行った。そこでホジソンは黄金の床几をヴィクトリア女王が受け取るべきだと述べたという。彼は黄金の床几の重大性を理解しておらず、この発言が引き起こすであろう激震を明らかに認識していなかった。1901年にホジソンがイギリスに対して行った報告によると、ホジソンはアシャンティ地域を統治しているのが大英帝国であることを示すためこのような発言を行ったという。しかし、聴衆にとっては、アシャンティ王国の体現であり、過去・現在・未来に生きる全てのアシャンティ王国民の象徴である床几に、外国人であるホジソンが触れ、汚そうとしていることはとても容認できるものではなかった。王国内のエジスを支配していた王母であるヤァ・アサンテワァはすぐに、イギリス軍を倒し、国外追放された王を再び呼び戻すべく国内の男たちを集めた。既に70歳ほどになっていたヤァ・アサンテワァは「民族統合の象徴」と考えられていた黄金の床几がイギリスに接収されそうになったことに怒り、ロジスティックスや司令官人事、戦術考案など全面的に戦争の指揮をとる他、呪術などを用いて兵士の精神的なバックアップも行った。王国民は怒り、多くの兵が志願した。ホジソンの代理として、セシル・ハミルトン・アーミテッジ(英語版)大尉は周辺地域から床几を探し始めたが、彼の兵力は待ち伏せする敵兵に包囲された。生き残ったイギリス兵はクマシのイギリス軍拠点へ撤退した。当時その拠点は高さ3.7メートル、1辺46メートルの銃眼の空いた高い石壁により要塞化され、角にはそれぞれ銃座が配置された。そこに18人のヨーロッパ人、十数人の混血の植民地経営者に加えて500人近いナイジェリアのハウサ族が6門の小型野砲と4基のマキシム機関銃と共に立て籠った。複数のアシャンティの王や族長も要塞に留まっていた。アシャンティ側は、イギリス軍の強固な要塞への突撃には準備ができていないことを自覚して長期包囲戦に落ち着き、4月29日に一回だけ襲撃を行って失敗した後は襲撃を試みなかった。アシャンティ軍は敵兵を狙撃し、電信線を切断し、食料の供給を防いだ上で敵の救援軍を攻撃しようとした。町へ続く全ての道は高さが1.8メートルを越す銃眼を備えた丸太のバリケード21基により数百メートルに及んで封鎖され、イギリス軍の砲撃を受け付けない強固な守備力を発揮した。 物資供給率の低下と伝染病が守備隊に被害をもたらしつつあった6月、700人から成る別の救援隊が拠点に到着した。負傷者と病人のために食糧を残すために、比較的健康な人員は、ホジソンとその妻、数百人のハウサ族と共に、アシャンティ軍の包囲網から脱出し、救援隊と合流して逃走を開始した。イギリスの直轄植民地への帰還を阻止するため12,000人ものアシャンティ軍の主力が招集されていたため、逃走者は、アャシャンティ軍の攻撃を避けながら逃走しなければならなかったのである。
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