黄金の左腕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 23:29 UTC 版)
「1955年のメジャーリーグベースボール」の記事における「黄金の左腕」の解説
ドジャースの本拠地であるニューヨーク市ブルックリン区に1935年生まれでこの年に20歳になった若者がいた。ユダヤ教徒であった両親は彼が3歳の時に離婚し、母親はやがて再婚して彼は継父の姓を名乗った。そして高校生の頃にはアスリートとしての卓越した才能を発揮してバスケットボールと野球に夢中であった。その時に彼が入っていた草野球チームにはフランク・トーリとジョー・トーリ(後のヤンキース監督)の兄弟、ケン(後に中日に入団)とボブのアスプロモンテ兄弟がいた。そして1953年にシンシナティ大学に進学して野球部に入り、1試合平均16個の奪三振(その代わり与四球も20個)で各球団のスカウトに注目されて、この1955年1月にブルックリン・ドジャースへ契約金1万4000ドル、年俸6000ドルで入団した。当時破格の契約金だったので注目される新人投手であるとともに、当時の大リーグでは1万ドル以上の契約金の新人選手は最初からメジャーの25人枠の中に置く規定になっていたので、彼はマイナーリーグを経験せず最初からメジャーに上った。その彼の代りにせっかくメジャーに昇格した28歳の投手トミー・ラソーダ(後のドジャース監督)はおかげでマイナーリーグに落とされた。このいきなりのメジャーデビューは彼にとって良い結果にはならなかった。球は無茶苦茶速いのだがノーコンで四球も多く、最初の6年間は通算36勝で1950年代はとてもエースとは言えなかった。デビューした1955年の成績は2勝2敗で奪三振30で与四球28。その後も2勝、5勝で4年目には11勝を挙げたが奪三振131で与四球105であった。 彼の名前はサンディ・コーファックス。やがてドン・ドライスデールとともにロサンゼルス・ドジャースの絶対のエースとして君臨し、1961年以降の6年間に129勝を挙げて、最多勝3回、最多奪三振4回、最優秀防御率5回そしてサイ・ヤング賞に3回輝き、黄金の左腕と呼ばれた男である。
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