サンディ・コーファックスとは? わかりやすく解説

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サンディー・コーファックス

(サンディ・コーファックス から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/24 13:15 UTC 版)

サンディ・コーファックス
Sandy Koufax
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州ブルックリン
生年月日 (1935-12-30) 1935年12月30日(89歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
210 lb =約95.3 kg
選手情報
投球・打席 左投右打
ポジション 投手
プロ入り 1954年
初出場 1955年6月24日
最終出場 1966年10月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 1972年
得票率 86.87%
選出方法 BBWAA[:en]選出

サンフォード・コーファックス英語: Sanford Koufax, 1935年12月30日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン出身の元プロ野球選手投手)。現在はMLBロサンゼルス・ドジャースでスペシャルアドバイザーを務めている。

ニックネームは「The Left Arm of God」。

経歴

ニューヨーク州ブルックリンで、ユダヤ教徒の家庭に生まれる。出生時の名前はサンフォード・ブラウン(Sanford Braun)だったが[1]、3歳の時に両親が離婚し、母親が弁護士のアール・コーファックスと再婚したため「コーファックス」の姓を名乗るようになった[2]。彼は現役引退直後に出版した自伝の中で「私が父と呼ぶのは、アール・コーファックスのみである」と明言している。

少年時代から抜群の運動神経に恵まれ、当時はバスケットボールが得意であった。シンシナティ大学からバスケットボールで奨学金を得て進学する[2]。大学ではバスケット、野球の両方をプレイしていたが[3]、「君の投げる球は物凄く速い。野球に将来を賭けてみないか」と地元のブルックリン・ドジャースに口説かれ[2]1954年12月13日に契約する[1]。この時の契約金が4000ドル以上だったため当時MLBにて導入されていたボーナス・ルールにより契約から2年間特例でメジャーリーグロースターに入れたために、マイナーリーグで腕を磨く機会を得られなかった[3]

1955年6月8日に故障者リストからロースター入りし、代わりに外されたのは、後の名将トミー・ラソーダだった[4]。6月24日のミルウォーキー・ブレーブス戦でメジャーデビュー。8月27日のシンシナティ・レッドレッグス戦では2安打、14奪三振でメジャー初完投・初完封勝利を挙げた。

1958年は11勝11敗を記録したが防御率4.48、リーグワースト2位の105四球、リーグワーストの17暴投だった。

1959年は8月31日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で当時のMLBタイ記録となる1試合18奪三振を記録[3]するなどリーグ3位の173奪三振。チームはブレーブスと同率で並び、プレーオフを制して移転後初のリーグ優勝。シカゴ・ホワイトソックスとのワールドシリーズでは第5戦に先発登板し、1失点完投と好投するが援護がなく敗戦投手。チームは4勝2敗で4年ぶりのワールドチャンピオンに輝いた。

1960年は開幕から1勝8敗と出足でつまづきチームメイトのドン・ドライスデールに次ぐリーグ2位の197奪三振を記録したものの8勝13敗、リーグワースト3位タイの100四球と制球難は相変わらずだった。

1961年は大学への復学を考えていたがスプリングトレーニングの際に捕手のノーム・シェリーから「なあ、今日は楽に投げてみないか。速い球で押しまくるんじゃなくて、カーブチェンジアップを増やしたりしてさ」というアドバイス[2]を受け、それをきっかけに制球難を克服し大きく成長する[3]。同年は自身初のオールスターゲームに選出されるなど18勝13敗、防御率3.52、269奪三振を記録し、クリスティ・マシューソン1903年に記録した267奪三振のリーグ記録(20世紀以降)を更新[4]して最多奪三振を獲得。

投手有利とされる新球場ドジャー・スタジアムが開場した1962年に一気に開花する。4月24日のシカゴ・カブス戦で2度目の18奪三振。6月30日のニューヨーク・メッツ戦で自身初のノーヒッターを達成するなど前半戦で13勝4敗、防御率2.15、202奪三振を記録。その後故障で離脱するが、9月に復帰。チームはジャイアンツと熾烈な優勝争いを演じ、残り7試合の時点で4ゲーム差を付けるが、その後1勝6敗と失速して同率で並ばれ、3試合制のプレーオフにもつれ込む。初戦の先発を任されるがウィリー・メイズに本塁打を浴びるなど2回途中3失点で降板し敗戦投手。結局1勝2敗で敗れてリーグ優勝を逃した。同年は14勝7敗、防御率2.54、216奪三振の成績で最優秀防御率のタイトルを獲得した。

1963年5月11日の宿敵ジャイアンツ戦で自身2度目のノーヒットノーランを達成。フアン・マリシャルと並んでリーグトップの25勝(5敗)、防御率1.88、自身のリーグ記録を更新する306奪三振、リーグトップの11完封を記録し、最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の投手三冠を達成し、チームのリーグ優勝の原動力となる。ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでは第1戦に先発し、当時のシリーズ記録を更新する15奪三振で2失点完投勝利。第4戦でも無四球1失点完投勝利を挙げ、4連勝で4年ぶりのワールドチャンピオンとなり、シリーズMVPを獲得。オフにサイ・ヤング賞MVPをダブル受賞した。

1964年のシーズン前にドライスデールと共に大幅な年俸増をオーナーのウォルター・オマリーに要求し、初の代理人交渉を行う。5月31日から11連勝を記録し、6月4日のフィラデルフィア・フィリーズ戦で3年連続となるノーヒッターを達成。の故障で8月16日の登板を最後に故障者リスト入りするものの、19勝5敗、防御率1.74、223奪三振、リーグトップの7完封を記録し、3年連続で最優秀防御率のタイトルを獲得した。

1965年は5月30日から再び11連勝。9月9日のシカゴ・カブス戦で14三振を奪って完全試合を達成し、史上初の4年連続ノーヒッターを達成。26勝8敗、防御率2.04、1904年ルーブ・ワッデルが記録した当時のMLB記録349を更新する382奪三振[3]、共にリーグトップの335.2イニング、27完投を記録し、2度目の投手三冠を達成。チームもジャイアンツとの熾烈な優勝争いを制しリーグ優勝。ミネソタ・ツインズとのワールドシリーズでは第1戦の10月6日がユダヤ教最大の祭日であるヨム・キプルと重なったため先発を拒否し、ユダヤ人コミュニティから称賛を浴びる。代わりにドライスデールが先発登板するがノックアウト。第2戦に先発登板するが中盤に打ち込まれて敗戦投手となる。第5戦では4安打、10奪三振完封勝利。シリーズは第7戦にもつれ込み、ローテーション通りならば先発はドライスデールの順番だったが、ウォルター・オルストン監督はコーファックスを中2日でマウンドに送る。見事に期待に応えて3安打10奪三振で完封、2年ぶりのワールドチャンピオンをもたらし2度目のシリーズMVPを獲得した。オフに2度目のサイ・ヤング賞を受賞し、MVPの投票でも2位に入った。

1966年は前半戦で8連勝を記録するなど15勝4敗、防御率1.60の成績で、6年連続の選出となったオールスターゲームでは先発投手を務めた。27勝9敗、防御率1.73、317奪三振、いずれもリーグトップの323.0イニング、27完投、5完封を記録し2年連続の投手三冠を達成、リーグ連覇に貢献する。ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズでは前年に続き第2戦に先発登板するが、6回4失点(自責点1)で降板、打線もジム・パーマーに完封され敗戦投手。チームは第3戦・第4戦も完封負けで4連敗と一蹴され、敗退した。シリーズ終了後の11月18日、登板過多による左肘の故障を理由に30歳で突如引退を発表する。引退の理由を「お金よりも大事なものがある」「野球を辞めた後も続く長い人生を健康な身体で送りたい」と語った[2]

コーファックスの背番号「32」。
ロサンゼルス・ドジャースの永久欠番1972年指定。

1972年に史上最年少の36歳で野球殿堂入りを果たす[4]。同年6月4日に背番号32」が、ロイ・キャンパネラの『39』、ジャッキー・ロビンソンの『42』と共にドジャース初の永久欠番に指定された[5]。なお、2024年10月にドジャース永久欠番指定選手・監督でフェルナンド・バレンズエラが死去したため、2024年現在コーファックスが唯一の存命者である。

引退後の5年間はNBCで解説者を務め、その後現在までドジャースの特別アドバイザーとして後進の指導を行っている。毎年ドジャースのスプリングトレーニングを訪れ、過去に日本人選手で在籍した野茂英雄石井一久を指導したこともある。ちなみに若手時代の山本昌を酷評したことでも知られる[6]2019年現在も健在ではあるが、メディアへの露出を極端に嫌い、彼の伝記 "A Lefty's Legacy"ユダヤ系アメリカ人ライターのジェーン・リービーによって書かれた時も、本人は取材を拒否している。なおこの伝記は彼の友人・知人が『本人の許可のもと』著者のインタビューに応じて完成されたものである。

2013年1月22日にドジャースのスペシャルアドバイザーに就任し、スプリングトレーニングでドジャースの投手たちにアドバイスを送った[7]他、4月1日にはドジャー・スタジアムで始球式に招待されている。

2014年の全米野球記者協会でのディナーにて

選手としての特徴

足を高く上げるオーバースローからのフォーシーム、カーブを武器とした。1963年のワールドシリーズで敗れたヤンキースの主砲ミッキー・マントルは「人々が彼について言っていたのが本当だったことが分かった。速球は胸元で浮き上がるし、カーブは見えなくなるほど落ちる」と語り、ヨギ・ベラは「何故あの男が25勝できたのかは理解できた。理解できないのはなぜ5敗もしたのかだ」と評した[8]。他にも当時のピッツバーグ・パイレーツの主砲、ウィリー・スタージェルも「コーファックスの球を打つのはコーヒーフォークですくって飲むようなものだ」と攻略の難しさを語っている[2]

通算投球回数2000回以上の投手が対象である、投球回数9回に対する通算の奪三振率が9.0以上の投手7人のうちの1人であり、投球回数9回に対する通算の奪三振率9.28は、マックス・シャーザーランディ・ジョンソンペドロ・マルティネスクレイトン・カーショウノーラン・ライアンに次ぐMLB史上6位である[9]。通算被安打率(9回ごとの被安打数)6.79は1000投球回以上ではライアンに次ぐ歴代2位[10]

登板過多から肘の故障に苦しむようになり、登板前には痛み止めの注射、登板後には現在では当たり前となった肩・肘のアイシングを行っていた。それでも医師からは「このまま投げ続ければ、日常生活にも支障が出る」とまで言われたという。

投手としての球種はカーブ、チェンジアップ、フォークボール。(米書「guide to pitchers」より)

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1955 BRO
LAD
12 5 4 2 0 2 2 0 -- .500 183 41.2 33 2 28 1 1 30 2 1 15 14 3.02 1.46
1956 16 10 0 0 0 2 4 0 -- .333 261 58.2 66 10 29 0 0 30 1 2 37 32 4.91 1.62
1957 34 13 2 0 0 5 4 0 -- .556 444 104.1 83 14 51 1 2 122 5 0 49 45 3.88 1.28
1958 40 26 5 0 0 11 11 1 -- .500 714 158.2 132 19 105 6 1 131 17 0 89 79 4.48 1.49
1959 35 23 6 1 0 8 6 2 -- .571 679 153.1 136 23 92 4 0 173 5 1 74 69 4.05 1.49
1960 37 26 7 2 0 8 13 1 -- .381 753 175.0 133 20 100 6 1 197 9 0 83 76 3.91 1.33
1961 42 35 15 2 0 18 13 1 -- .581 1068 255.2 212 27 96 6 3 269 12 2 117 100 3.52 1.20
1962 28 26 11 2 1 14 7 1 -- .667 744 184.1 134 13 57 4 2 216 3 0 61 52 2.54 1.04
1963 40 40 20 11 6 25 5 0 -- .833 1210 311.0 214 18 58 7 3 306 6 1 68 65 1.88 0.87
1964 29 28 15 7 3 19 5 1 -- .792 870 223.0 154 13 53 5 0 223 9 0 49 43 1.74 0.93
1965 43 41 27 8 4 26 8 2 -- .765 1297 335.2 216 26 71 4 5 382 11 0 90 76 2.04 0.86
1966 41 41 27 5 2 27 9 0 -- .750 1274 323.0 241 19 77 4 0 317 7 0 74 62 1.73 0.98
MLB:12年 397 314 137 40 16 165 87 9 -- .655 9497 2324.1 1754 204 817 48 18 2396 87 7 806 713 2.76 1.11
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • BRO(ブルックリン・ドジャース)は、1958年にLAD(ロサンゼルス・ドジャース)に球団名を変更

年度別守備成績



投手(P)












タイトル

表彰

記録

背番号

脚注

  1. ^ a b Sandy Koufax Statistics” (英語). Baseball-Reference.com. 2009年3月1日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 芝山幹郎 「誇り高き歴史を築いた男たち サンディ・コーファックス THE HALL of FAME SUPERSATRS」『月刊メジャー・リーグ』1997年2月号、ベースボールマガジン社、1997年、雑誌 08625-12、56 - 57頁。
  3. ^ a b c d e Langford, Jim. “The Ballplayers - Sandy Koufax Biography” (英語). BaseballLibrary.com. 2009年3月1日閲覧。
  4. ^ a b c Sandy Koufax from the Chronology” (英語). BaseballLibrary.com. 2009年3月1日閲覧。
  5. ^ Dodgers Retired Numbers” (英語). MLB.com. 2009年3月1日閲覧。
  6. ^ 山本昌『133キロ怪速球』ベースボール・マガジン社、2009年。ISBN 978-4583101699、127-128頁。
  7. ^ Hall of Famer Sandy Koufax to return to Dodgers in 2013”. MLB.com Dodgers Press Release (2013年1月22日). 2014年1月17日閲覧。
  8. ^ The Hall of Famers Sandy Koufax” (英語). National Baseball Hall of Fame and Museum. 2009年3月1日閲覧。
  9. ^ https://www.baseball-reference.com/leaders/strikeouts_per_nine_career.shtml
  10. ^ https://www.baseball-reference.com/leaders/hits_per_nine_career.shtml

関連項目

外部リンク


サンディ・コーファックス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:03 UTC 版)

1961年のメジャーリーグベースボール」の記事における「サンディ・コーファックス」の解説

ロサンゼルス・ドジャースのサンディ・コーファックスは1955年にボーナス・プレーヤーとして1万4,000ドル契約金ブルックリン・ドジャース入団当時規則破格契約金入団した選手は、いきなりメジャーデビューする決まりであったため、マイナーリーグ経験なしでの登板であったので、ただやたらと速い球を投げてホームプレートをうまく使うテクニック持ち合わせておらず、そのうえコントロールが定まらなかった。1年目は2勝2敗、以後は2勝4敗・5勝4敗でロサンゼルスへ移ってからも1111敗・8勝6敗・8勝13敗と三振も多いが四球多く、いい投球をすることもあるが長続きせず、先発はなれない二流投手であった。そしてこの年1961年の春のベロ・ビーチ・キャンプで(ちょうど日本の王・長嶋読売ジャイアンツもベロ・ビーチに参加していた)、ノーム・シェリー捕手から「いつも目いっぱい投げるのではなく、力を抜いて投げてみろ」とアドバイス受けた。そして大きな縦のカーブ低め一杯切れ込むチェンジアップ覚え、それらを持ち前スピードのある速球組み合わせることで、従来ストレート一本槍からカーブチェンジアップ交えたバリエーション切り替えて速球一点張り力投することに拘らず気楽に肩の力抜いて投げ方法実践したところ、制球力がつき球威増して前年までの6年間で通算36勝だったのが、この年18勝を挙げて奪三振269最多奪三振記録した。翌1962年ドジャー・スタジアム完成し投手有利な条件整った球場移ってから、黄金の左腕開花し誰も手が付けられない難攻不落投手となって以降6年間で129勝して最多勝3回最優秀防御率5回・最多奪三振4回、投手三冠3回サイ・ヤング賞3回ノーヒットノーラン3回完全試合1回記録しドジャース黄金時代代表する投手となった

※この「サンディ・コーファックス」の解説は、「1961年のメジャーリーグベースボール」の解説の一部です。
「サンディ・コーファックス」を含む「1961年のメジャーリーグベースボール」の記事については、「1961年のメジャーリーグベースボール」の概要を参照ください。

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