黄金の床几戦争と戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/20 14:02 UTC 版)
「ヤァ・アサンテワァ」の記事における「黄金の床几戦争と戦後」の解説
1900年3月初め、アシャンティ勢がイギリス側が籠城するクマシの要塞を包囲した。要塞はクマシ要塞と軍事博物館として現存している。数か月後ゴールド・コースト総督は、鎮圧のために1400人の部隊を送った。戦闘でヤァ・アサンテワァと15人の側近が捕らえられ、セーシェルに追放された。この戦争は19世紀を通じて行われた一連のイギリス・アシャンティ戦争(英語版)の最後のものであった。1902年1月2日、イギリスはアシャンティが約1世紀にわたって防衛してきた土地を完全に奪取し、アシャンティ王国はイギリスの保護国にされた。 ヤァ・アサンテワァは1921年10月17日にセーシェルで追放生活中に死亡した。死の3年後の1924年12月17日、プレンペー1世ら残りの追放されたアシャンティの支配層は、アシャンティへの帰還を許された。プレンペー1世はヤァ・アサンテワァや他の追放されたアシャンティの人々の遺体が正当な王族としての埋葬のために帰還できることを確実にした。
※この「黄金の床几戦争と戦後」の解説は、「ヤァ・アサンテワァ」の解説の一部です。
「黄金の床几戦争と戦後」を含む「ヤァ・アサンテワァ」の記事については、「ヤァ・アサンテワァ」の概要を参照ください。
- 黄金の床几戦争と戦後のページへのリンク