黄金の左腕の引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 05:55 UTC 版)
「1966年のメジャーリーグベースボール」の記事における「黄金の左腕の引退」の解説
ドジャースのサンディ・コーファックスは、2年連続3度目の投手三冠と3度目のサイ・ヤング賞獲得でまさに絶頂期であった。シーズン前には右のエースドン・ドライスデールとともに球団との年俸アップの共闘を組んで春のキャンプをボイコットするなどして契約更改に応じない姿勢を見せたりして結果、年俸13万ドルに昇給させ(ドライスデールは11万5,000ドル)、ペナントレースも終盤の追い込みでリーグ連覇の立役者であった。コーファックスの投げた球種はオーバースローから投げ下ろす快速球、鋭く曲がり落ちるカーブ、地を這うように沈み込むチェンジアップの3種類だけであった。しかしどれも超がつく一級品の球で、左ひじの故障の影響で一流打者は彼の投球フォームで速球かカーブかの区別は分かっていたと後に言われているが、それでも打てなかった。シーズン終了後ロサンゼルス・ドジャースは日米野球で日本に旅立ち、コーファックスは痛めていた左ひじの手術のため訪日を断念せざるを得ず、黄金の左腕を見れなかった日本のファンをがっかりさせていた。そのドジャースが来日して日本各地で試合をして最終戦を迎えていた時の11月15日にドジャースの選手も驚くニュースがロサンゼルスから届いた。コーファックスの引退宣言であった。左ひじの手術が思わしくなく、このままでは左腕が動かなくなると医師からの忠告を聞いて、彼が下した結論はマウンドを去ることであった。 1955年に契約金1万4,000ドルで入団後いきなりメジャーデビューを果たした(この時に代わりにマイナーに落とされた投手が後にドジャース監督になった名将トミー・ラソーダであった)。凄い球を投げるがコントロールに難があり、四球から自滅するパターンで思うような投球が出来ず、奪三振も多いが与四球も多く成績も物足りない二流投手であった。入団して7年目の1961年春のキャンプで控え捕手のノーム・シェリーから勧められてそれまでのストレート一本槍でなく、力を抜いてカーブやチェンジアップを投げる投法に切り替えてから、1961年に18勝を上げてチームの主軸投手となり、やがて球界を代表する投手となり、そして球史に残る投手となった。1962年にやがて投手生命を奪うことになる左ひじの関節炎を発症し、左ひじ痛に悩まされて試合前はコーチゾン注射で痛みをしずめ、試合後は左肩から左ひじをアイシング治療しながら登板し超人的なパフォーマンスでチームを引っ張ったが、この年が限界であった。30歳での早い引退を誰もが惜しんだが、6年後の1972年にコーファックスは36歳の若さで野球殿堂入りを果たした。
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