騒乱と和歌とは? わかりやすく解説

騒乱と和歌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:06 UTC 版)

源実朝」の記事における「騒乱と和歌」の解説

元久2年(1205年)4月十二首の和歌試作する。6月畠山重忠の乱起こり北条義時、時房、和田義盛三浦義村らが鎮める乱後行賞政子に依り計らわれ、実朝幼年の間はこの例に依るとされた。閏7月19日時政邸に在った実朝を侵そうという牧の方謀計鎌倉知れ渡る実朝政子の命を受けた御家人らに守られ義時邸宅逃れた牧の方の夫である時政は兵を集めるが、兵はすべて義時邸に参じた20日時政伊豆国修禅寺追われ執権職は義時継いだ牧氏事件)。9月2日後鳥羽勅撰した『新古今和歌集』を京より運ばせる和歌集未だ披露されていなかったが、和歌を好む実朝は、父の歌が入集すると聞くとしきりに見る事を望んだ建永元年1206年2月4日北条義時山荘立ち寄り北条泰時東重胤内藤知親らと歌会を催す。2月22日従四位下へ昇り10月20日には母の命により兄・頼家次男である善哉猶子とする。11月18日歌会で近仕していた東重胤が数月ぶりに鎌倉帰参する。実朝かねてより和歌送って重胤を召していたが、遅参した為に蟄居させる。12月23日、重胤は義時邸宅訪れ蟄居悲嘆述べる。義時は「凡そこの如き災い遭うは、官仕習いなり。但し詠歌を献らば定めて快然たらんかと」と述べ、重胤を伴って実朝邸宅に赴き、重胤の詠歌実朝献じて重胤を庇った。実朝は重胤の歌を三回吟じると、門外で待つ重胤を召し、歌の事を尋ね許した承元元年1207年1月5日従四位上叙せられる。承元2年1208年2月疱瘡患う実朝これまで幾度も鶴岡八幡宮参拝していたが、以後3年間は病の痕を恥じて参拝止めた幕府宗教的な象徴である鶴岡八幡宮への参拝将軍公的行事中でも最も重要なものの1つであり、その期間の実朝疱瘡による精神的打撃から政務のほぼ全般行い得なかったのではないか、と推測する見解もある。同年12月9日正四位下昇る承元3年1209年4月10日従三位叙せられ、5月26日には右近衛中将に任ぜられる。公卿となり政所開設する資格を得、親裁行使し始める。この頃から幕府下文が「鎌倉殿下文」から「政所下文」に変化する7月5日和歌三十首の評を藤原定家請う8月13日定家はこれに合点加え、更に「近代秀歌」として知られる詠歌口伝一巻献じた11月14日義時郎従の中で功のある者を侍に準ずる事を望む。実朝許容せず、「然る如きの輩、子孫時に及び定めて以往由緒忘れ誤って幕府に参昇を企てんか。後難を招くべきの因縁なり。永く御免有るべからざる」と述べる。しかし後世北条氏家人御内人呼ばれ幕府権勢を振るう事となる。 建暦元年1211年1月5日正三位昇り18日美作権守兼ねる。9月15日猶子迎えていた善哉出家して公暁号し22日には受戒の為上洛した。 建暦2年1212年3月1日、「旬の蹴鞠」を始めたいという実朝意向により「幕府御鞠始」を行う。実朝蹴鞠記事頼朝比べ格段に少なく、恐らく4年前の承元2年に「承元御鞠」を催した後鳥羽を範としたものである。6月7日侍所に於いて宿直御家人が闘乱を起こし二名死者が出る。7月2日実朝侍所破却新造望み不要との声を許容せず、千葉成胤造進命じる。12月10日従二位昇るこの頃しばしば幕府において歌会催し御家人との結び付き固める(承元4年十一月建暦3年2月など)。特にしばしば泰時伺候していることが注目される建暦3年1213年2月16日御家人らの謀反露顕する頼家遺児将軍とし義時を討たんと企てており、加わった者が捕らえられる泉親衡の乱)。その中には侍所別当務め和田義盛の子である義直と義重らもあった。20日囚人である薗田成朝逃亡が明らかとなる。実朝成朝受領所望していた事を聞くとかえって「早くこれを尋ね出し恩赦有るべき」と述べる。26日死罪命じられ渋河兼守詠んだ和歌を見ると過を宥めた。27日謀反人多く配流処した同日正二位昇る3月8日和田義盛御所参じ対面する実朝は義盛の功労考え義直と義重の罪を許した9日、義盛は一族率いて再び御所参じ甥である胤長の許しを請うが、実朝は胤長が張本として許容せず、それを伝えた北条義時和田一族前に面縛した胤長を晒した4月、義盛の謀反聞こえ始める。5月2日朝、兵を挙げる義時はそれを聞く幕府参じ政子実朝の妻を八幡宮逃れさせた。酉の刻、義盛の兵は幕府囲み御所火を放つ。ここで実朝火災逃れ頼朝墓所である法華堂入った戦い3日入って終わらず実朝の下に「多勢恃み有る似たりといえども、更に凶徒武勇を敗り難し重ねて賢慮を廻らさるべきか」との報告が届く。驚いた実朝政所に在った大江広元召すと、願書を書かせそれに自筆和歌を二首加え八幡宮奉じる酉の刻に義盛は討たれ合戦終わった5日実朝御所に戻ると侍所別当後任義時任じその他の勲功の賞も行った和田合戦)。 9月19日日光に住む畠山重忠末子重慶謀反企てるとの報が届く。実朝長沼宗政生け捕り命じるが、21日宗政重慶の首を斬り帰参した。実朝は「重忠は罪無く誅をこうむった。その末子隠謀企んで何の思議有ろうか。命じた通りにまずその身を生け捕り参れば、ここで沙汰定めるのに、命を奪ってしまった。粗忽の儀が罪である」と述べると嘆息し宗政出仕止める。それ伝え聞いた宗政は眼を怒らし「この件は叛逆企て疑い無し生け捕って参れば、女等の申し出によって必ず許し沙汰有る考え、首をした。今後このような事があれば、忠節軽んじて誰が困ろうか」と述べた。閏9月16日、兄・小山朝政申請により実朝宗政を許す。11月23日藤原定家より相伝『万葉集』が届く。広元よりこれを受け取ると「これに過ぎる重宝があろうか」と述べ賞玩する。同日仲介行った飛鳥井雅経かねてより訴えていた伊勢国地頭の非儀を止めさせる建暦3年12月奥書のある『金槐和歌集』はこの頃纏められたと考えられている。 建保2年1214年5月7日延暦寺焼かれ園城寺再建沙汰する6月3日諸国旱魃愁いており、実朝降雨祈り法華経転読する。5日雨が降る13日関東御領年貢三分の二免ずる。また同年には、栄西より『喫茶養生記』を献上される栄西翌年に病で亡くなるが、大江親広実朝使者として見舞った建保4年1216年3月5日政子の命により頼家の娘(後の竹御所)を猶子迎える。

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「騒乱と和歌」を含む「源実朝」の記事については、「源実朝」の概要を参照ください。

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