騒動のその後
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騒動のさなか一番つらい思いをしたのが当時の子供たちで、唯一の教育機関、村立神坂小中学校は対立以降長野県内合併派の子供が村八分状態にされ、村内の寺などを借りて授業を続けていたが合併が決まり中津川市立となるや完全に弾き飛ばされてしまった。そこで長野県は山口村立神坂小中学校を作って受け皿を作るなど対応に追われた。しかし山口村に編入された旧馬籠村地区にも岐阜県合併派がいて、学校が出来て以降、今度は同派の子供が同校の出席を拒否して地区内の民家を借りて授業を続けるという事態が起きるなどしこりが残っていた。 47年後の2005年2月13日になって、山口村が岐阜県中津川市に越県合併された。その際田中康夫長野県知事は当初「村の行方は住民が決めること」と静観していたが、後に反対に回った。長野県議会は当初反対し、それが知事にも影響したが、最終的に賛成に回った。これは騒動が長野県議会の反対から村を二分する騒動に発展し(当時の)子供達につらい思いをさせていたことが禍根になっていたことが考えられる。
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騒動のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 15:31 UTC 版)
住吉楼での乱闘によって熊川は死亡、それ以外にも死者が出たとも伝わるが詳細は不明である。この一件については「新撰組顛末記」「島田魁日記」「京都守護職への届出」「大坂東町奉行所への届出」「浪士文久報国記事」によって経緯から新撰組側・力士側双方の主張、死傷者数、熊川の死亡日などそれぞれが異なっている。また、この事件の捜査を担当した大坂西町奉行所の与力・内山彦次郎と、事件当時現場に居合わせなかった近藤勇の間で遺恨が生じることとなる。 なお、熊川の経歴は全く不明であり、それを最も反映しているものが事件後の場所の番付に名が記載されていることである。
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騒動のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 15:18 UTC 版)
4月1日、中西毅男は明治政府から、隠岐が天朝領であることの確認と自治の認定を受けようと京都へ向かったが、思うような回答がないまま時が過ぎた。 一方、松江藩は隠岐の早期の奪還を画策しており、1868年4月13日に新政府太政官から隠岐取締りの指令が出された。4月末から松江藩兵が次々と上陸し、5月10日の戦闘により松江藩は陣屋を奪還した(死者14人、負傷者8人)。しかし、新政府は島民の取締りに兵力が用いられたことや、その事件の経緯が鳥取藩(因州藩)によって間接的に伝えられたことなどを問題視し、隠岐に監察使を派遣して取り調べを行うことを指示した。鳥取藩は事件の収拾の名目で景山龍造を派遣した。このとき隠岐には会津討征のために長州藩の丁卯丸と薩摩藩の乾行丸が入港しており、景山と丁卯丸を率いる山田顕義に面識があったことから、鳥取藩のほか薩摩藩と長州藩も事態の収拾にあたった。5月28日には新政府から派遣された土肥謙蔵(鳥取藩出身)が隠岐に到着したため景山は隠岐を離れた。松江藩は土肥の取調べを受け、最終的に藩兵側から発砲したことを認めた。その後、明治元年11月6日に鳥取藩に対して隠岐取締りの指令が出され、鳥取藩に事務が引き継がれた。なお『隠岐島誌』では土肥の離島後に会議所や総会所などの機関が一時的に復活したとする一方、この一件により松江藩から鳥取藩の支配に帰したと記しており明治新政府は自治を公式には認めていなかったとされている。鳥取藩による管轄も隠岐県の設置により終了した。 明治4年、島民と松江藩双方の騒動に関係した者が罰せられ、一連の騒動は決着した。
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