騒動の事後処理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 03:06 UTC 版)
騒動の収束後に幕府では吟味役を派遣し、石和代官所において取り調べを行う。郡内蜂起の主導者となった武七・兵助は奥右衛門宅打ち壊しの後に一揆勢から離脱し帰村するが、武七は罪を被り自首し、捕縛された。武七は石和宿(笛吹市石和町)で磔に処されることが決まるが、牢死している。 一方の兵助は甲斐から逃亡し、関東から北陸、畿内、四国、中国など各地を流浪している。兵助には旅日記が現存しており、天保10年以前には犬目村へ戻り、家族を連れて安房国木更津(千葉県木更津市)へ渡り、奈良姓に改姓して寺子屋を経営したという。上野原市犬目の法勝寺の宗門人別帳や子孫からの聞き取り調査によれば、兵助一家は安政5年(1858年)以前に安房から甲斐へ戻り、兵助は慶応年間に死去したという。 綱領を起草した黒野田宿の泰順は天保9年に石和代官所において入牢するが、翌天保10年に特赦され、帰郷している。 騒動の鎮圧に失敗した三分代官に対しては吟味への参加を許さず、番所や牢の新築に際した経費を負担させている。吟味では無宿人の頭取をはじめとする500人(うち130人あまりが無宿人)以上のが捕縛され、酒食や炊き出しを提供した有徳人や村々の騒動関与者も厳しく追及され、頭取ら9人が死罪、37人が遠島となる。また、関与者を出した村々には過料銭が科せられたほか、三分代官も処罰されている。一方で、積極的に騒動鎮圧に協力したものに対しては褒賞が与えられている。
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