景山龍造とは? わかりやすく解説

景山龍造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/27 09:29 UTC 版)

景山 龍造(かげやま りょうぞう、文化14年(1817年)4月 - 明治5年8月18日1872年9月20日))は、幕末武士鳥取藩士)、儒者幼名は礼太郎。は守正。は雍卿。は道村。従五位

父は医者・儒者であり優れた教育者だった景山粛

略年譜

4月 - 会見郡中野村(現・鳥取県境港市中野町)に木島立碩(景山粛)の子として生まれた。
- へ移り吉益北州の門に入り医学を学んだ。
- 三条実万に知られをもって身を立てるよう勧められ、公子の侍読となった[1]。2年で此処を辞して大坂堂島に塾を開く。
- 召されて藩校尚徳館教授に任じられ士に列した[2]
- 探索係として入京し朝廷、藩庁間の周旋に努める。
- 学校文場学正格式諸奉行 隠岐鎮撫の責を果たす。
5月 - 教部省出仕を拝命したが、翌月辞任。
8月18日 - 東京猿楽町にて没す。墓は境港市中野町正福寺の北側、景山家墓地。
2月11日 - 従五位を追贈された[3]

史料

初代木島立碩墓碑

  • が養父(初代)立碩のために「先考石碑銘并序」を次のように刻んでいる

先考景山、名義春、立碩、粛之考七右衛門者其兄也、称長三郎農夫也、性剛毅而有奇才、聞善若驚疾悪如讐、以節倹治家致貨以恵子孫、甫弱冠有高志、傷世多夭横、乃学医京千木嶋子、敏悟之質夙極其秘薀頗精干瘂科治方之活桟(中略)

影山日記

時に寛政六(1794年)寅歳、先年の語り伝へ知るし置。大家と言は、先年後醍醐天皇様御こしかけ遊ばされ候家也。之により大家と言。大家の先祖影山道くわんと言人也。又与次郎・与三郎・伊三郎と言名は有けれ共、先後は知れず大家の家、是迄凡弐拾代と言る也(下略)

家譜・景山道遠家

  • 先祖は景山道観と申候者に御座候。道観より龍造父立碩迄世々伯耆会見郡中野村え住居仕り同族も数多蔓延仕り居り申候後鳥羽帝隠岐え御遷幸之節、御宿申上候事村之故老申伝居候得共、元禄元年焼失之刻家譜類残らず焼失仕り候由(下略)

参考文献

  • 『鳥取県百傑伝』昭和45年、535-543頁
  • 『境港市史 上巻』昭和61年、438-448頁
  • 『境港市史 下巻』昭和61年、169-170頁

関連人物

脚注

  1. ^ 『鳥取藩史1藩士列伝』に「弘化元年、偶々三条実万卿の知る処と成り、卿龍造にを以て立つ可きを勧め、二年学習院の経理を佐けしめ、並に其公子の侍読たらしむ」と記す。公睦実美の二子のうちの一人はのちの維新の元勲と称される三条実美である。父の遺志を継いで尊王攘夷運動、討幕運動の苦節の道を維新まで歩み続けた公卿である。龍造が三条家に仕えた時三条実美は9歳の少年であった。侍読は「じどく」、「じとう」とも読み、そば近くにあって書を講ずる学者をいう。維新後太政大臣となり新政府の中枢となった三条実美の少年期の精神形成に龍造の人柄と教養は何らかの影響を与えたことであろう(『境港市史 上巻』昭和61年、441-442頁)
  2. ^ 尚徳館教授に任じられた年について、『境港市史 上巻(昭和61年)』438頁、『鳥取県百傑伝』537頁には“安政元年(1854年)”、『境港市史 下巻(昭和61年)』では“嘉永5年(1852年)”となっている
  3. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.53

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