久松松平家の時代(第1期)
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「桑名藩」の記事における「久松松平家の時代(第1期)」の解説
本多家に代わって家康の異父弟である松平定勝が、山城伏見藩5万石から6万石加増の11万石で入った。元和6年(1620年)には伊勢長島領7000石を与えられて11万7000石となる。定勝は寛永元年(1624年)3月14日に死去し、第2代藩主は次男の松平定行が継いだ。この際に7000石を弟の松平定房に分与したため、再び11万石となった。定行は水道の設置、上水道(町屋御用水)工事、城下における湿地の開拓による三崎新田の開発などに尽力したが、寛永12年(1635年)7月28日に15万石に加増された上で伊予松山藩に移封された。 このため、美濃大垣藩6万石より定行の弟・松平定綱が11万3000石に加増されて入る。定綱も新田開発や水利の整備、家臣団編成などに尽力し名君としての誉れが高く、実際の桑名藩祖は定綱であるともいわれており、実際に鎮国公、鎮国大明神として祭られている。しかし桑名は洪水が相次ぐ場所で、慶安3年(1650年)の大洪水では6万4000石もの被害をもたらす大惨事となった。 慶安4年(1651年)12月に定綱は没し、第4代藩主には次男の松平定良が承応元年(1652年)2月に就任するも、病弱のため明暦3年(1657年)7月に死去した。このため伊予松山藩より養子として松平定重が第5代藩主として入る。この定重は53年にわたって桑名を支配するという長期政権であったが、この時代には天災が相次ぎ、天和元年(1681年)、天和3年(1683年)、貞享3年(1686年)、元禄3年(1690年)、元禄8年(1695年)、元禄14年(1701年)、宝永4年(1707年)と立て続けに水害が発生し、火災においても寛文5年(1665年)、元禄14年(1701年)、元禄15年(1702年)、宝永4年(1707年)と発生した。 このため家臣の減給やリストラが頻繁に行われたが、定重は8石3人扶持の小者であった野村増右衛門を郡代に抜擢し、野村は倹約令や新田開発など藩政の再建に敏腕を振るった。これは大成功だったが、譜代の家臣団の嫉視を買い、宝永7年(1710年)5月29日に野村は死罪に処された(野村騒動)。そしてこの騒動が幕府にも知られるところとなり、閏8月15日に定重は越後高田藩に懲罰的な移封を命じられた。
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久松松平家の時代
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伊勢桑名藩主の定綱系久松松平家の松平定重が、野村騒動の処理が苛烈過ぎると幕府の不興を買って転封、11万3000石で入る。この久松松平家は高田藩政でも厳しい統治を行った。騒動自体は享保7年(1722年)に第8代将軍徳川吉宗が享保の改革で発令した流地禁止令が原因だったが、この条目が原因で頚城郡における幕府領内の百姓が騒動(頸城騒動)を3年余にわたって起こし、幕府は騒動を鎮定するため幕府領を高田藩に預けることにしたが、時の藩主松平定輝は藩軍を動員して暴徒を鎮圧すると、磔7名、獄門11名、死罪12名、遠島20名、所払い及び田地取り上げ19名、罰金(過料)20名という厳罰を下した。幕府はこの鎮定を評価して5代目の松平定賢の時に陸奥白河藩に移封したとしているが、実際は2度目の左遷だった。高田における久松松平家の統治はかなり厳しく、特に重税が敷かれて領民は怨嗟の声を上げていた。移封の時期が鎮定した定輝ではなく5代目の定賢というのも時期が合わず、また高田よりさらに僻地の白河であり、実質的には左遷だった。
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