久松松平家の左遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 04:04 UTC 版)
この事件はただちに幕府に知られて公儀巡検が行われ、幕府は閏8月15日に定重に対して「桑名藩今度の騒擾天下の評議よろしからず」として越後高田藩に移封された。石高に変化はなかったが、山間の地である高田に追いやられて実高は大きく後退し、桑名の良港を失うことになったので、事実上の減封・左遷であった。定重は騒動の2年後に家督を五男の定逵に譲って隠居し、江戸の藩邸に引き篭もった。また当時、この事件と移封に関する落首が次のように詠まれた。 竹は8月、木は切ろ9月、野村増右衛門は5月斬り 野村は逮捕からわずか4日後の5月29日に処刑されたが、桑名藩における重罪人の処刑は通常12月末に行うことになっており、5月の仕置きは非常に異例であったことからそう謳われた。 文政6年(1823年)、松平定永が白河藩から再び桑名へ移封された時、久松松平家は正式に野村や一族など370名余の赦免の沙汰を出し、事件から113年後に野村は無罪とされて供養塔も建立された。
※この「久松松平家の左遷」の解説は、「野村騒動」の解説の一部です。
「久松松平家の左遷」を含む「野村騒動」の記事については、「野村騒動」の概要を参照ください。
- 久松松平家の左遷のページへのリンク