室町幕府崩壊 南陸奥の情勢とは? わかりやすく解説

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室町幕府崩壊 南陸奥の情勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 08:30 UTC 版)

相馬義胤 (十六代当主)」の記事における「室町幕府崩壊 南陸奥の情勢」の解説

元亀4年1573年7月織田信長足利義昭を京より追放し室町幕府崩壊奥州探題伊達晴宗権威弱体化した天正元年1573年)、出羽国では最上氏当主最上義守嫡男最上義光父子の間で争い勃発天正最上の乱)。伊達氏介入する天正2年1月1573年12月)、南陸奥では佐竹義重白川義親白河城)の弟・善七郎内応させて浅川石川郡浅川町)に挙兵させた。27日には須賀川勢(二階堂氏須賀川城)が蘆名氏田村氏手切れしている。『伊達輝宗日記正月二十日条には「会津より、田村より、須賀川むかって廿七日手切候とて脚力参候」と記される。このとき田村隆顕・清顕父子二階堂領だけでなく、勢い乗って蘆名領、白川領まで攻め入り田村氏最大版図築いた一方佐竹義重赤館東白川郡棚倉町) 他10城程を攻めとり、一旦は白川義親本城孤立させたが、蘆名勢の加勢によって追い払われた。 3月蘆名盛氏田村氏との和睦調停伊達輝宗依頼する容易に成立しなかった。3月23日には「会津・磐瀬ノ士卒」が田村領を攻め二階堂氏蘆名氏服属した。天正2年1574年4月伊達実元蘆名盛興二本松義国堀越宗範の八丁目城攻略また、伊達・信夫・苅田柴田勢に陣触を出し天正最上の乱混乱する出羽侵攻する構え見せる。6月蘆名盛興死去する出羽国での戦闘一時膠着する。この間義胤は最上氏共闘打診をしたとされる9月10日天正最上の乱和睦により終結し20日には田村隆顕死去。同9月、再び赤館押し寄せた佐竹勢を蘆名勢が撃退し蘆名盛氏白川義親対面し、さらに那須資胤烏山城)と面会して誓書交わし三家同盟によって佐竹勢に対抗することをはかった10月奥州管領末裔二本松畠山氏伊達蘆名方へ降伏した。 『東州雑記』は「(天正三年1574年)義重白川へ動(はたらき)、二月手ニ入、白川七郎名代ニ立ル也」と記す。『奥羽永慶軍記』では白川義親和田昭為離反敗れて佐竹義重降参したとされる年月日記されず)。5月蘆名氏田村氏戦い蘆名家重臣松本氏輔らが戦死7月には二階堂盛義実子・盛隆が蘆名家人質から蘆名盛興病死経て蘆名家当主となっていた。 相馬氏伊具郡亘理郡伊達氏一進一退の攻防続けていた。 天正3年1575年6月下旬名取郡大敗喫す亘理元宗落とし相馬軍の退路を断つ。盛胤後室実家である亘理氏伊達側への離反発覚相馬父子辛くも撤退成功する天正4年1576年)春、義胤は桃生郡深谷東松島市)の小野城長江盛景の娘を妻に迎えた7月17日矢野目丸森町矢間小斎中間付近)・冥加山(冥護山・明護山)の戦いで伊達輝宗戦い大勝挙げている。 天正5年1577年7月蘆名氏田村氏とともに白河城攻め落とした佐竹氏南方から北条氏政小田原城)に攻められたのに乗じたのである白河古文書会津若松史8』)。白川義親が再び白川家実権掌握した次いで蘆名田村石川攻め石川昭光を「在城一ヶ所」に追いこんで石川領を制圧した

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