室町幕府崩壊 南陸奥の情勢
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「相馬義胤 (十六代当主)」の記事における「室町幕府崩壊 南陸奥の情勢」の解説
元亀4年(1573年)7月、織田信長が足利義昭を京より追放し室町幕府が崩壊。奥州探題・伊達晴宗の権威が弱体化した。 天正元年(1573年)、出羽国では最上氏当主の最上義守と嫡男の最上義光父子の間で争いが勃発(天正最上の乱)。伊達氏が介入する。 天正2年1月(1573年12月)、南陸奥では佐竹義重が白川義親(白河城)の弟・善七郎を内応させて浅川(石川郡浅川町)に挙兵させた。27日には須賀川勢(二階堂氏・須賀川城)が蘆名氏・田村氏と手切れしている。『伊達輝宗日記』正月二十日条には「会津より、田村より、須賀川むかって廿七日に手切候とて脚力参候」と記される。このとき田村隆顕・清顕父子は二階堂領だけでなく、勢いに乗って蘆名領、白川領まで攻め入り、田村氏の最大版図を築いた。一方、佐竹義重は赤館(東白川郡棚倉町) 他10城程を攻めとり、一旦は白川義親を本城に孤立させたが、蘆名勢の加勢によって追い払われた。 3月、蘆名盛氏は田村氏との和睦の調停を伊達輝宗に依頼するが容易に成立しなかった。3月23日には「会津・磐瀬ノ士卒」が田村領を攻め、二階堂氏が蘆名氏に服属した。天正2年(1574年)4月、伊達実元・蘆名盛興が二本松義国・堀越宗範の八丁目城を攻略。また、伊達・信夫・苅田・柴田勢に陣触を出し天正最上の乱で混乱する出羽へ侵攻する構えを見せる。6月蘆名盛興が死去すると出羽国での戦闘は一時膠着する。この間義胤は最上氏へ共闘の打診をしたとされる。 9月10日天正最上の乱が和睦により終結し20日には田村隆顕が死去。同9月、再び赤館に押し寄せた佐竹勢を蘆名勢が撃退し、蘆名盛氏は白川義親と対面し、さらに那須資胤(烏山城)と面会して誓書を交わし、三家の同盟によって佐竹勢に対抗することをはかった。10月、奥州管領の末裔・二本松畠山氏が伊達・蘆名方へ降伏した。 『東州雑記』は「(天正)三年(1574年)義重白川へ動(はたらき)、二月手ニ入、白川善七郎名代ニ立ル也」と記す。『奥羽永慶軍記』では白川義親は和田昭為の離反で敗れて佐竹義重に降参したとされる(年月日は記されず)。5月、蘆名氏は田村氏と戦い、蘆名家重臣の松本氏輔らが戦死。7月には二階堂盛義の実子・盛隆が蘆名家の人質から蘆名盛興の病死を経て蘆名家当主となっていた。 相馬氏は伊具郡・亘理郡で伊達氏と一進一退の攻防を続けていた。 天正3年(1575年)6月下旬、名取郡で大敗を喫す。亘理元宗、橋を落とし相馬軍の退路を断つ。盛胤後室の実家である亘理氏の伊達側への離反が発覚。相馬父子、辛くも撤退に成功する。 天正4年(1576年)春、義胤は桃生郡深谷(東松島市)の小野城主長江盛景の娘を妻に迎えた。7月17日の矢野目(丸森町舘矢間と小斎の中間付近)・冥加山(冥護山・明護山)の戦いでは伊達輝宗と戦い大勝を挙げている。 天正5年(1577年)7月、蘆名氏は田村氏とともに白河城を攻め落とした。佐竹氏が南方から北条氏政(小田原城)に攻められたのに乗じたものである(白河証古文書『会津若松史8』)。白川義親が再び白川家の実権を掌握した。次いで蘆名・田村は石川を攻め、石川昭光を「在城一ヶ所」に追いこんで石川領を制圧した。
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