室町幕府へ帰順
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その後、2代将軍足利義詮は斯波高経の献策により、防長両国の守護職を認めることを条件として弘世に北朝への復帰を促し、正平17年/貞治元年(1363年)9月に弘世は足利直冬と南朝に見切りをつけて北朝に帰順した。 正平18年/貞治2年(1363年)12月13日、北朝方として豊前柳城を攻める。正平19年/貞治3年(1364年)2月、南朝方菊池氏の出城であった豊前馬ヶ嶽城に出兵する。しかし名和顕長、名和長生、菊池武勝、厚東駿河守の連合軍に敗れて香春岳に退却した。香春岳で包囲された弘世は名和長生を仲介に誓書を送り和睦、帰国した。 正平21年/貞治5年(1366年)、足利義詮に拝謁のため上洛。その際将軍家近臣に多くの黄金と布帛を賄賂として贈り大いに名声を得たという。また同年、足利直冬率いる石見の南朝勢力を駆逐した戦功により石見守護にも任じられる。 正平21年/貞治5年(1366年)には剃髪し、道階と号する。 正平21年/貞治5年(1366年)7月、石見に出兵し、7月13日に青龍寺城を攻める。石見国の国人領主、益田兼見と協力し石見国を平定した後、安芸国に進入。安芸国の諸城を降しながら、正平23年/貞治7年(1368年)に帰国した。 ところが、北朝・室町幕府への帰服を一時的なものと捉える弘世と室町幕府の安定化をみてその体制下での生き残りを図ろうとする嫡男・義弘の間で対立が生じるようになる。建徳2年/応安4年(1371年)からは九州探題となっていた今川貞世を支援して九州に進出。大宰府攻略や南朝勢力の攻略に戦功を挙げたが、翌年8月には帰国してしまう。その後、文中3年/応安7年(1374年)7月に安芸国人毛利元春を攻め、天授2年/永和2年(1376年)4月にも再度侵攻した、これは元春が今川貞世の命を受けて九州に出陣中の事件であった。これを知った3代将軍足利義満や管領細川頼之から咎められて石見守護職を剥奪されたため、撤兵した。三条公忠の日記 後愚昧記によると、天授2年/永和2年(1376年)閏7月14日、弘世は守護職剥奪の件について武家(足利義満)を恨み南朝に降参する企てがあると京都で噂になり、管領細川頼之が在京する弘世の代官に、周防長門両国守護職については子細に及ばない理由を諭したとの記事が見える。ところが、天授5年/康暦元年(1379年)になって、弘世と異なって今川貞世の傘下として各地を転戦していた義弘に石見守護職が与えられ、弘世と義弘の力関係が逆転することになる。 天授6年/康暦2年(1380年)に弘世は死去しているが、その没日は11月15日(一説には10月15日)で嫡男・義弘と弟である満弘が家督を巡って内戦(康暦内戦)をしている中の死であった。しかも、当時の大内氏は義弘が実権を握りつつあったにも関わらず、鷲頭氏をはじめ多くの重臣が満弘陣営に参加している。そして、内戦中最大の激戦は安芸・石見方面での満弘本隊との戦いではなく、別働隊が籠る長府の下山城の攻防戦(同年10月5日陥落)であった。藤井崇はこの経緯から、この戦いを義弘と満弘の戦いではなく、義弘と彼を廃して満弘を後継者にしようとした弘世の戦いとし、下山城の籠城に弘世が関与している可能性や弘世の死に義弘が関与している可能性があるとしている。
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