室町幕府へ帰順とは? わかりやすく解説

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室町幕府へ帰順

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/25 15:46 UTC 版)

大内弘世」の記事における「室町幕府へ帰順」の解説

その後2代将軍足利義詮斯波高経献策により、防長両国守護職認めることを条件として弘世に北朝への復帰促し正平17年/貞治元年1363年9月に弘世は足利直冬南朝見切りをつけて北朝帰順した正平18年/貞治2年1363年12月13日北朝方として豊前柳城攻める。正平19年/貞治3年1364年2月南朝菊池氏出城であった豊前馬ヶ嶽城出兵する。しかし名和顕長、名和長生菊池武勝厚東駿河守連合軍敗れて香春岳退却した香春岳包囲された弘世は名和長生仲介誓書送り和睦帰国した正平21年/貞治5年1366年)、足利義詮拝謁のため上洛その際将軍家近臣多く黄金布帛賄賂として贈り大い名声得たという。また同年足利直冬率い石見南朝勢力駆逐した戦功により石見守護にも任じられる正平21年/貞治5年1366年)には剃髪し、道階と号する正平21年/貞治5年1366年7月石見出兵し、7月13日青龍寺城を攻める。石見国国人領主益田兼見協力し石見国平定した後、安芸国進入安芸国諸城降しながら、正平23年/貞治7年1368年)に帰国した。 ところが、北朝室町幕府へ帰服一時的なもの捉える弘世と室町幕府安定化をみてその体制下での生き残り図ろうとする嫡男義弘の間で対立生じるようになる建徳2年/応安4年1371年)からは九州探題となっていた今川貞世支援して九州進出大宰府攻略南朝勢力攻略戦功挙げたが、翌年8月には帰国してしまう。その後文中3年/応安7年1374年7月安芸国人毛利元春を攻め天授2年/永和2年1376年4月にも再度侵攻した、これは元春が今川貞世の命を受けて九州出陣中の事件であった。これを知った3代将軍足利義満管領細川頼之から咎められ石見守護職を剥奪されたため、撤兵した。三条公忠日記 後愚昧記によると、天授2年/永和2年1376年)閏7月14日、弘世は守護職剥奪の件について武家足利義満)を恨み南朝降参する企てがあると京都で噂になり、管領細川頼之在京する弘世の代官に、周防長門両国守護職については子細に及ばない理由諭したとの記事見える。ところが、天授5年/康暦元年1379年になって、弘世と異なって今川貞世傘下として各地転戦していた義弘石見守護職が与えられ、弘世と義弘力関係逆転することになる。 天授6年/康暦2年1380年)に弘世は死去しているが、その没日11月15日一説には10月15日)で嫡男義弘と弟である満弘が家督巡って内戦康暦内戦)をしている中の死であった。しかも、当時大内氏義弘実権握りつつあったにも関わらず鷲頭氏をはじめ多く重臣が満弘陣営参加している。そして、内戦最大激戦安芸石見方面での満弘本隊との戦いではなく、別働隊籠る長府下山城攻防戦同年10月5日陥落であった藤井崇はこの経緯から、この戦い義弘と満弘の戦いではなく、義弘と彼を廃して満弘を後継者にしようとした世の戦いとし、下山城籠城に弘世が関与している可能性や弘世の死に義弘関与している可能性があるとしている。

※この「室町幕府へ帰順」の解説は、「大内弘世」の解説の一部です。
「室町幕府へ帰順」を含む「大内弘世」の記事については、「大内弘世」の概要を参照ください。

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