室町幕府の終焉
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天正2年(1574年)、将軍義昭は織田信長との抗争に敗れ、毛利氏を頼り備後の鞆に座すと、信長討伐令を各地に放った。毛利氏と織田氏は対立し、備中を巡る情勢にもまた変化が表れた。 浦上宗景は信長にその地位を保全されていたが、主家と対立を深めた宇喜多直家は、毛利氏に講和を求めると宗景に反旗を翻した。信長は浦上家中の内紛として、毛利氏に仲介を期待したようでもあるが、毛利氏は積極的に直家を支援した。この状況に宇喜多氏に遺恨のある三村元親は、織田氏の勧誘を受け、結果的に同盟者の入れ替わりが生じた。 直後に毛利氏は中島大炊助から三村元親謀反のしらせを受けると、小早川隆景を討伐軍の大将として、同年11月10日笠岡城に出陣した。そして総大将毛利輝元は小田に陣を布き、ここに備中兵乱と称される毛利氏と三村氏の戦が始まった。毛利氏、宇喜多氏は協力して三村勢の諸城を攻め、12月には猿掛城を包囲し落城させると、毛利氏に従っていた三村親成の案内で国吉城を天正3年(1575年)1月1日に落城させ、ついで鶴首城を攻め落とした。天正3年6月2日、ついに三村元親は自刃し、備中に覇を唱えた三村氏は滅んだ。 そして浦上政宗の孫・浦上久松丸を擁立した宇喜多直家は、勢いに乗じて浦上宗景を天神山城から播磨へ放逐し、事実上の下克上を行った。 この後備中国では、高梁川を境に東を宇喜多領とし、西を毛利領としたのである。尼子・宇喜多側として没落の憂き目にあった庄氏一門であったが、備中兵乱では毛利氏の協力者としてなんとか復権を果たし、庄勝資は高釣部城を、植木秀資は斉田(佐井田)城を領したのであった。後年に作成された家譜等ではこの年に毛利元清が、穂井田元祐(庄元資)の養子となり、穂井田元清と名乗ったとされるが、元清自身の書状によれば、在城した猿掛城のあった穂田郷という在名から穂田(穂井田)を名字としたと述べ、庄氏との関係を否定している。 天正6年(1578年)7月には、毛利勢は上月城で羽柴秀吉・尼子連合軍との決戦に及び、尼子勝久・山中幸盛ら尼子氏残党を滅ぼした。天正7年(1579年)になると、毛利氏と織田氏の対立の最前線に位置するようになった宇喜多直家は、毛利方と手を切り羽柴秀吉のもとに降った。以後、天正7年から9年にかけて毛利勢は再三にわたって宇喜多領に侵入し、備中忍山合戦、備前八浜合戦、備前辛川合戦、美作寺畑城合戦など、各地で宇喜多勢と激戦を展開した。 庄勝資は、これら宇喜多氏との一連の対峙において落命したようで、庄氏は歴史の表舞台から去ったのである。庄氏は、武士の興隆期に分国の守護代として、また管領家の内衆(重臣)として威を示した。しかし細川氏の衰退後は、これに代わる権力の裏付けと言う点で確立が遅れ、同じ国衆である三村氏に権勢を奪われている。庄氏は、戦国時代の備中に守護家を凌ぐ威を張りながら、最終的には守護家と同様に戦国大名へとは変貌できなかったのである。この点では、隣国浦上氏にも類似した行動様式(守護赤松氏と並立し、国衆を束ねる立場を取る)があり、やはり長年にわたって培われた「家格」とでも称する感覚(権力の支持者であったが故に、完全にはそれを否定できない)が作用した可能性もある。なお植木氏は尼子・毛利・宇喜多と主家を変えながらも所領の維持を続け、備中兵乱の後は毛利氏麾下で植木秀資が佐井田城主に返り咲き、慶長5年の関ヶ原の戦いまで維持したようである。 織田勢との対峙は備中にせまり、天正10年(1582年)には、備中高松城の戦いが生じている。この直後に本能寺の変が生じ、織田氏と講和した毛利氏は、安芸・周防・長門・石見・出雲・隠岐・備後・備中半国・伯耆半国、を領する中国の太守に、また豊臣政権下では五大老となった。しかしその毛利氏も、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い以後に、防長二カ国に削封された。江戸時代の備中には国持ち大名は存在せず、小藩あるいは知行地として分割領有された。
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