室町幕府の執事とは? わかりやすく解説

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室町幕府の執事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 16:58 UTC 版)

執事」の記事における「室町幕府の執事」の解説

鎌倉幕府においては政所問注所執事職が置かれ二階堂氏三善氏世襲し、しばしば政所次官「令」を兼ねていたが、室町幕府においては幕府成立直後初期前述執事職とは異な執事職があった。代々足利氏家宰務めてきた高氏高師直そのまま将軍家家政預かって執事呼ばれるようになったのであるが、幕府という仕組みそのもの将軍家家政機関としての側面持っていたことから、恩賞所務沙汰など重要な政務にも関与するようになり、将軍右腕といえるほど幕政統括する権力持った役職となった。だが、高師直その後攻め滅ぼされ以後仁木氏細川氏といった足利一族執事就任する細川清氏執事任命された際に管領かんれい)という別称用いられるようになり、続いて斯波高経後任となった際に自らは「管領」を名乗り嫡男義将に「執事」の称号を名乗らせて共同政務を執ったが、当然父である管領・高経が実権持ち執事義将はその補佐役に過ぎなかった。貞治6年1367年)、細川頼之2代将軍足利義詮遺言によって幼少の新将軍義満補佐後見任されると、管領として幕府全権掌握した。これ以後管領」の呼称統一されて「執事」は使われなくなったまた、幕府機関である政所問注所の長も「執事」と呼称された。問注所次第形骸化していったが、政所では15世紀後半より財政再建などで実績挙げた伊勢氏事実上世襲となった一方室町幕府東国統治機関鎌倉府においてもトップ関東公方鎌倉公方足利家世襲)とナンバー2関東執事置かれ高師冬上杉憲顕畠山国清高師有相次いで関東執事任じられるその後上杉憲顕関東執事復帰し続いてその子能憲が後を継いで上杉氏による世襲確立すると、幕府中央倣って関東管領呼ばれるようになった。なお、享徳の乱によって関東管領である上杉氏対立した鎌倉公方古河公方足利成氏幕府追討を受けると、将軍足利義政の弟政知が新し鎌倉公方として鎌倉下りその際補佐に付けられた上杉教朝渋川義鏡関東執事職を任命されたが、義鏡が関東管領である上杉氏権力剥奪しようとして上杉一門の教朝を倒したことから、上杉氏反感買ってしまい政知・義鏡の鎌倉入り拒まれ伊豆国留まり、政知は堀越公方と名乗らざるをえなかった。この件がもとで義鏡が失脚すると、上杉教朝嫡男政憲が後を継いで関東管領との協調進めたが、後に政知と対立して自害命じられた。その後後任任じられることなく堀越公方伊勢盛時北条早雲)によって滅ぼされてしまったために、関東執事もそれとともに廃された。

※この「室町幕府の執事」の解説は、「執事」の解説の一部です。
「室町幕府の執事」を含む「執事」の記事については、「執事」の概要を参照ください。

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