関東管領
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関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。
注釈
- ^ 関東管領の呼称は憲顕の復帰後から見られる。しかし関東管領の役職が後世に知られる形で成立したのは、従来鎌倉公方が担っていた所務遵行命令権が足利基氏の死をきっかけに上杉憲顕に移されてから(以後、所務遵行命令権は、関東管領の職権となる)、とする見方がある。なお、応安元年4月10日に春屋妙葩が二階堂行春に充てた書状(『南北朝遺文 関東編』3465号)では、憲顕を「管領」、細川頼之を「執事」と呼称していることから、関東管領の名は、室町幕府中央の管領より先に成立していた可能性が高い[1]。
- ^ 天文9年(1540年)、足利晴氏は北条氏綱の娘の芳春院殿を娶って後北条氏と結び、山内上杉家と断交している。本来、鎌倉公方及び古河公方には関東管領の任命権がないことが問題となるが、氏綱の後妻・北の藤は、室町将軍足利義晴の室・慶寿院の姉にあたる(氏綱を介して義晴と晴氏は義理の叔父甥の関係となる)ため、本来任命権を持つ将軍と無関係に任命が行われたとは考えにくい[7]。
- ^ 関東管領一覧については『国史大辞典』「関東管領一覧」、小要 1978、小要 1997を元に修正する。
- ^ 『鎌倉市史』・『南北朝遺文』は上杉憲春、田辺久子は上杉憲栄、木下聡・黒田基樹は上杉顕能(重能の実子で、従来「顕能」とされてきた備後守護を務めた重能養子とは別人物)に比定している。なお、小要 1978では受領名のみで、実名に関しては結論を保留にしている。
- ^ 小要 1997では1368年補任とする。また、1362年の在任説を取らない『国史大辞典』では再々任。
- ^ 小要 1997では1369年補任、かつ同年中に5月(旧暦)に辞職して8月(同)に復帰している。
- ^ 小要 1997では1369年補任。
- ^ 小要 1997では1394年辞任。
- ^ 小要 1997では補任そのものを史実とは認めず、父・憲方の在任期間とする。
- ^ 小要 1997では1410年辞任。
- ^ 小要 1997では1410年補任。
- ^ 小要 1997では1416年補任。
- ^ 小要 1997では1420-1439年・1440年-1447年。
- ^ 黒田基樹は1442年-1444年まで通説では憲実の名代とされる上杉清方が事実上の関東管領であった可能性を指摘している[14]。
出典
- ^ 亀田俊和『室町幕府管領施行システムの研究』思文閣出版、2013年、291-298頁。ISBN 978-4-7842-1675-8。
- ^ a b 黒田 2013, 黒田基樹「関東管領上杉氏の研究」
- ^ a b 木下聡「山内上杉氏における官途と関東管領職の問題」『日本歴史』第685号、2005年。/所収:黒田 2014
- ^ 小国浩寿『鎌倉府体制と東国』吉川弘文館、2001年、160-164頁。
- ^ 黒田 2013, 植田真平「山内上杉氏と越後上杉氏」.
- ^ 黒田 2013, 木下聡「上杉氏の官途について」.
- ^ 長塚孝 著「氏康と古河公方の政治関係」、黒田基樹 編『北条氏康とその時代』戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年7月、245-246頁。ISBN 978-4-86403-391-6。
- ^ 和氣俊行 著「東国における「公方-管領体制」の止揚時期再考 -房総里見氏の政治思想からみる-」、中野栄夫 編『日本中世の政治と社会』吉川弘文館、2003年。ISBN 978-4-642-02829-5。
- ^ 平山 2015, p. 38.
- ^ 平山 2015, p. 72.
- ^ 鎌倉市史編纂委員会 編『鎌倉市史』 5巻、吉川弘文館、1959年、12頁。
- ^ 貫達人「関東管領」『国史大辞典』第3巻、吉川弘文館、1983年2月、886–887頁。
- ^ 小要 1978.
- ^ 黒田 2013, 黒田基樹「上杉清方の基礎的研究」.
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