室町幕府と明王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 12:33 UTC 版)
こうして天皇親政が復活するかに見えたが、二条河原の落書からも分かるように建武の新政は不安定であった。持明院統が建武式目を制定して1338年に足利尊氏を征夷大将軍に任命すると、大覚寺統は吉野へ南下して北朝と対峙する南北朝時代が到来する。しかし、新田義貞の戦死と後醍醐天皇の病死で南朝は衰退していく。日本の海賊である倭寇が朝鮮半島南岸に次いで中国大陸沿岸の山東から浙江にかけてを襲撃するようになるはこの頃からである。前期倭寇 は日本人が中心で、元寇に際して元軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民が中心であり、「三島倭寇」と総称された。この海賊行為は、元寇に対する地方の私軍による復讐の意味合い、および、再度の侵攻への予防という側面もあったと考えられる。また、これらの地域では元寇による被害で労働力不足に陥り農業生産力が低下したために、これを補完する目的があったとも考えられている。 中国大陸では白蓮教徒による紅巾の乱を経て1368年に洪武帝が明を建国し、海禁政策によって朝貢貿易のみを許可することとした。日本に対して倭寇討伐の要請をするため九州で勢威を振るっていた南朝の征西将軍懐良親王に使者を派遣する。しかしその後九州探題の今川貞世により九州の南朝勢力が駆逐され、1368年、第3代将軍の足利義満の時に南北両朝廷は和睦を結び、1392年には南北朝が合一するため洪武帝は日本との冊封関係を結べなかった。しかし、1401年に義満が僧の祖阿・商人の肥富を遣明船で明に派遣すると、靖難の変で即位した永楽帝は1404年に足利将軍を「日本国王」として冊封し、永楽帝は義満を評価しており、その死の翌年に弔問使を日本につかわし「恭献」という諡を送っている。日本人で外国から諡号を贈られたのは義満が最初で最後である。この関係は義満の跡を継いだ足利義持が1411年に明の使者を追い返すまで続いていた。室町幕府は明皇帝に対して朝貢する形式で日明貿易を限定的に開始する。1404年以降は日本に対して交付される貿易許可証である勘合符を遣明使船に所持させる勘合貿易の導入で倭寇の取締りが容易になった。1411年に朝貢形式は屈辱的として足利義持が日明貿易を停止したりするが、1432年に足利義教が貿易を再開させて1549年まで19回に渡り行われる。日本からの輸出品は、硫黄・銅などの鉱物、扇子・刀剣・漆器・屏風などであり、輸入品は、永楽通宝・生糸・織物・書物などであった。輸入された織物や書画などは北山文化や東山文化など室町文化にも影響を与えた。 室町幕府は三管領・四職の政治構造で運営されていくことになるが、守護大名の成長が著しく守護領国制が確立していく。1449年に足利義政が第8代将軍に就くとその悪態ぶりと次期将軍を巡って1467年からの応仁の乱で守護大名が東西に分裂、地方では農民による土一揆・国一揆・一向一揆などの反乱が頻発し、下克上の戦国時代の幕が開くことになる。遣明船派遣の権利を巡っては、博多商人の大内氏と堺商人の細川氏が対立することになるが1523年の寧波の乱の結果、大内氏が権益を握り1536年に大内義隆が遣明船派遣を再開する。その一方でヨーロッパ人が日本近海へ訪れるようになり、1543年に鉄砲が種子島に伝来するとポルトガル・スペインとの南蛮貿易が始まり、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが1549年にキリスト教を伝える。その結果キリシタン大名が出現し天正遣欧使節が派遣されたりする。1551年、大内氏が滅亡すると遣明船派遣は途絶える。王直など明の密輸商が中心の後期倭寇による密航貿易が中心となっていった。
※この「室町幕府と明王朝」の解説は、「日中関係史」の解説の一部です。
「室町幕府と明王朝」を含む「日中関係史」の記事については、「日中関係史」の概要を参照ください。
- 室町幕府と明王朝のページへのリンク