室町以降とは? わかりやすく解説

室町以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 05:31 UTC 版)

真言律宗」の記事における「室町以降」の解説

室町時代後期以後一時衰微したものの、江戸時代前期明忍再興の動き見せ、その門人にあたる浄厳初め公に真言律宗」という名乗り用いた1872年明治5年)、明治政府諸宗派の整理断行その際律宗最大勢力であった真言律宗が元は真言宗流れを汲むことから全律宗諸派真言宗組み入れられた。 その後律宗諸派はいずれ真言宗からの独立求め西大寺でも佐伯弘澄(64長老)が運動行った。その甲斐があり、1895年明治28年)に律宗系の諸派真言宗からの独立許されて、その際真言律宗真言宗から独立する。ただし、明治以前真言律宗であった寺院中には独立従わず真言宗寺院としての道を歩んだものもあった。 以後西大寺総本山としてその住職である西大寺長老真言律宗管長兼務する慣例となっている。

※この「室町以降」の解説は、「真言律宗」の解説の一部です。
「室町以降」を含む「真言律宗」の記事については、「真言律宗」の概要を参照ください。


室町以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:56 UTC 版)

日本刀」の記事における「室町以降」の解説

室町時代初期には備前国で「小反り」と呼ばれる一派活躍した主な刀工長船政光、秀光、師光などである。続く応永年間には、備前長船盛光、康光、家助、経家などの名工輩出した。これらは応永年間作られたものが多いので、世に応永備前」と呼ばれている。応永備前特徴は、鎌倉時代太刀狙った腰反りがつく優美な姿である点にある。また、嘉吉の乱で、室内戦闘用鎬作りの短い刀が求められたため、脇差の製作が行われた点も重要なポイントである。太刀から打刀脇差二本差しスタイル生まれたはちょうどこの時期である。応永備前打刀(2尺3寸前後)、脇差(1尺5寸前後)は非常に姿が良く江戸時代大名美し拵え作るために珍重された。この頃たたら製鉄技術一段進歩したと言われ大規模な製鉄場跡が見られるうになる15世紀前半頃から明への貿易品として日本刀生産が行われるようになった15世紀後半応仁の乱によって再び戦乱の世が始まると、足軽貸し出すお貸し刀」が大量に必要となり短期間需要応えるため、粗悪な「数打物かずうちもの)」「束刀(たばがたな)」と呼ばれる粗製濫造品が大量に出回るようになった戦国時代に入ると刀剣生産各地行われ、特に祐定を名乗る刀工だけでも60名強揃った備前国と、兼「某」を名乗る刀工活躍した美濃国生産拠点双璧である。他には、豊後三原大和加賀越中駿州知られている。寛正年間から火縄銃普及する天正頃まで、片手打ちの刀(2尺前後)が多い。また財力余裕のある武将は、己が命運託する刀剣特注することもあった。これらオーダーメイドである「注文打ち」には名刀揃っている重要文化財指定されている「長船與三左衛門祐定」の永正年期作は、注文主栗山某の美意識反映してか、元から中ほどまで中直刃で、中から先まで互の目乱れ焼き従来にはない感覚の異色名刀である。同時代著名な刀工としては、備前則光、在光、賀光、祐光勝光、宗光、清光春光、治光、幸光など、美濃兼定兼元、兼常、兼房、兼先、兼道、兼則、兼若、兼生、氏貞、正吉(坂倉関)、正善(坂倉関)、正利(坂倉関)などが挙げられる他の地方では、相州綱広、千子村正高天神兼明豊後平鎮教、平安城長吉、手掻包真、加州行光宇多国宗波平某などがある。その他無名刀工含めると相当数存在していた。 室町中期以降15世紀後半応仁の乱経て後期戦国時代には、日本刀主流は刃を下向きにして腰に佩(は)く太刀から、刃を上向きにして腰に差す打刀うちがたな)に移り変わった。これは南北朝時代始まっていた戦場における集団戦化がさらに大規模化し、戦場における戦い方徒歩の大集団による戦闘変化したことによるこの頃には大量に動員され徒歩足軽戦場大きな役割を果たすようになっていた。彼らは応仁の乱の頃は武装統一されておらず、簡素な片手打ち片手持ち日本刀)で武装するなどしていたが、戦国時代には武装し密集隊形運用されるようになっていた。また16世紀後半には南蛮貿易により火縄銃伝来し日本刀鍛冶改良火縄銃大量生産し、足軽火縄銃武装するようになっていた。このような戦場環境の変化により、薙刀廃れてに取って代わられ、弓と火縄銃混用されるようになり、太刀はより軽量携行しやすい打刀にとって代わられたのである見た目豪壮な太刀次第上級武士の権威象徴となっていった。また太刀切り取られ短小化され根元の刃が潰され打刀改造されていったこのような短小化を磨上げという。 戦国時代には、火縄銃登場などにより甲冑もより強化され当世具足搭乗すると、一時普及した片手打ち廃れて再び両手で柄を握る姿に戻り身幅広く重ね厚く、大切先刀剣現われ始めた。この姿が豊臣秀吉による天下統一後にも受け継がれ豪壮な慶長新刀体配生み出す土壌となった南北朝時代から使われ大身槍室町時代末期から安土桃山時代軍記などの文献にはよく現れ南北朝時代流行した大太刀野太刀安土桃山時代に再び流行したとする説もある。また、南北朝時代大太刀改良型である長巻登場し南北朝時代室町時代戦国時代によく使われた。 戦国時代から江戸時代にかけての一時期打刀太刀のように刃を下に向けて帯に差す半太刀拵様式正装取り入れられた。これは太刀から打刀への過渡的な状況反映したものとも考えられている。帯に留める型は打刀様式で、鞘の刀装金具太刀様式混ざるなど、拵も打刀太刀折衷的なものになっているものも多い。

※この「室町以降」の解説は、「日本刀」の解説の一部です。
「室町以降」を含む「日本刀」の記事については、「日本刀」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「室町以降」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「室町以降」の関連用語

室町以降のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



室町以降のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの真言律宗 (改訂履歴)、日本刀 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS