室町以降
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室町時代後期以後一時衰微したものの、江戸時代前期の明忍が再興の動きを見せ、その門人にあたる浄厳は初めて公に「真言律宗」という名乗りを用いた。 1872年(明治5年)、明治政府は諸宗派の整理を断行、その際律宗系最大の勢力であった真言律宗が元は真言宗の流れを汲むことから全律宗諸派が真言宗に組み入れられた。 その後、律宗系諸派はいずれも真言宗からの独立を求め、西大寺でも佐伯弘澄(64世長老)が運動を行った。その甲斐があり、1895年(明治28年)に律宗系の諸派は真言宗からの独立を許されて、その際に真言律宗も真言宗から独立する。ただし、明治以前真言律宗であった寺院の中には独立に従わずに真言宗寺院としての道を歩んだものもあった。 以後、西大寺を総本山としてその住職である西大寺長老が真言律宗管長を兼務する慣例となっている。
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室町以降
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室町時代初期には備前国で「小反り」と呼ばれる一派が活躍した。主な刀工は長船政光、秀光、師光などである。続く応永年間には、備前長船盛光、康光、家助、経家などの名工が輩出した。これらは応永年間に作られたものが多いので、世に「応永備前」と呼ばれている。応永備前の特徴は、鎌倉時代の太刀を狙った腰反りがつく優美な姿である点にある。また、嘉吉の乱で、室内戦闘用に鎬作りの短い刀が求められたため、脇差の製作が行われた点も重要なポイントである。太刀から打刀・脇差の二本差しスタイルが生まれたのはちょうどこの時期である。応永備前の打刀(2尺3寸前後)、脇差(1尺5寸前後)は非常に姿が良く、江戸時代に大名が美しい拵えを作るために珍重された。この頃、たたら製鉄技術が一段進歩したと言われ、大規模な製鉄場跡が見られるようになる。 15世紀前半頃から明への貿易品として日本刀の生産が行われるようになった。15世紀後半の応仁の乱によって再び戦乱の世が始まると、足軽に貸し出す「お貸し刀」が大量に必要となり短期間で需要に応えるため、粗悪な「数打物(かずうちもの)」「束刀(たばがたな)」と呼ばれる粗製濫造品が大量に出回るようになった。 戦国時代に入ると刀剣生産が各地で行われ、特に祐定を名乗る刀工だけでも60名強揃った備前国と、兼「某」を名乗る刀工が活躍した美濃国が生産拠点の双璧である。他には、豊後、三原、大和、加賀、越中、駿州が知られている。寛正年間から火縄銃が普及する天正頃まで、片手打ちの刀(2尺前後)が多い。また財力に余裕のある武将は、己が命運を託する刀剣を特注することもあった。これらオーダーメイドである「注文打ち」には名刀が揃っている。重要文化財に指定されている「長船與三左衛門祐定」の永正年期作は、注文主の栗山某の美意識を反映してか、元から中ほどまで中直刃で、中から先まで互の目乱れを焼き、従来にはない感覚の異色の名刀である。同時代の著名な刀工としては、備前の則光、在光、賀光、祐光、勝光、宗光、清光、春光、治光、幸光など、美濃の兼定、兼元、兼常、兼房、兼先、兼道、兼則、兼若、兼生、氏貞、正吉(坂倉関)、正善(坂倉関)、正利(坂倉関)などが挙げられる。他の地方では、相州綱広、千子村正、高天神兼明、豊後平鎮教、平安城長吉、手掻包真、加州行光、宇多国宗、波平某などがある。その他無名の刀工を含めると相当数が存在していた。 室町中期以降、15世紀後半の応仁の乱を経て後期の戦国時代には、日本刀の主流は刃を下向きにして腰に佩(は)く太刀から、刃を上向きにして腰に差す打刀(うちがたな)に移り変わった。これは南北朝時代に始まっていた戦場における集団戦化がさらに大規模化し、戦場における戦い方が徒歩の大集団による戦闘に変化したことによる。この頃には大量に動員された徒歩の足軽が戦場で大きな役割を果たすようになっていた。彼らは応仁の乱の頃は武装が統一されておらず、簡素な片手打ち(片手持ちの日本刀)で武装するなどしていたが、戦国時代には槍で武装し密集隊形で運用されるようになっていた。また16世紀後半には南蛮貿易により火縄銃が伝来し、日本の刀鍛冶が改良火縄銃を大量生産し、足軽が火縄銃で武装するようになっていた。このような戦場の環境の変化により、薙刀は廃れて槍に取って代わられ、弓と火縄銃が混用されるようになり、太刀はより軽量で携行しやすい打刀にとって代わられたのである。見た目が豪壮な太刀は次第に上級武士の権威の象徴となっていった。また太刀の茎が切り取られて短小化され根元の刃が潰され打刀に改造されていった。このような短小化を磨上げという。 戦国時代には、火縄銃の登場などにより甲冑もより強化された当世具足が搭乗すると、一時普及した片手打ちは廃れて再び両手で柄を握る姿に戻り、身幅広く、重ね厚く、大切先の刀剣が現われ始めた。この姿が豊臣秀吉による天下統一後にも受け継がれ、豪壮な「慶長新刀」体配を生み出す土壌となった。南北朝時代から使われた大身槍 が室町時代末期から安土桃山時代の軍記などの文献にはよく現れ、南北朝時代に流行した大太刀・野太刀が安土桃山時代に再び流行したとする説もある。また、南北朝時代に大太刀の改良型である長巻が登場し、南北朝時代と室町時代と戦国時代によく使われた。 戦国時代から江戸時代にかけての一時期、打刀を太刀のように刃を下に向けて帯に差す半太刀拵の様式が正装に取り入れられた。これは太刀から打刀への過渡的な状況を反映したものとも考えられている。帯に留める栗型は打刀様式で、鞘の刀装金具は太刀の様式が混ざるなど、拵も打刀と太刀の折衷的なものになっているものも多い。
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