物語上の常盤
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以下は主に『平治物語』『義経記』による物語上の常盤の話である。したがってどこまでが事実であるか不明であるがこの物語がその後の文学や芸術に大きな影響を与えたことは事実である。 常盤は近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女で、雑仕女の採用にあたり藤原伊通の命令によって都の美女千人を集められ、その百名の中から十名を選んだ。その十名の中で聡明で一番の美女であったという。後に源義朝の側室になり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。平治の乱で義朝が謀反人となって逃亡中に殺害され、23歳で未亡人となる。その後、子供たちを連れて雪中を逃亡し大和国にたどり着く。その後、都に残った母が捕らえられたことを知り、主であった九条院の御前に赴いてから(『平治物語』)、清盛の元に出頭する。出頭した常盤は母の助命を乞い、子供たちが殺されるのは仕方がないことけれども子供達が殺されるのを見るのは忍びないから先に自分を殺して欲しいと懇願する。その様子と常盤の美しさに心を動かされた清盛は頼朝の助命が決定していたことを理由にして今若、乙若、牛若を助命したとされている。 なお、室町以降に成立したとみられる『義経記』ならびに室町以降に成立した流本系『平治物語』においては常盤に清盛がよしなき心を抱き、常盤に文を送って子供の命を盾に返答を強要したという内容が記されている(流布本『平治物語』では清盛から子供の命を絶つと言われても常盤は返事せず、母親に説得されて初めて常盤が返答したとある)。しかし鎌倉時代に成立した『平治物語』においては、常盤が清盛から局を与えられ後に女子を一人産んだとの記載があるが、それには常盤が清盛の意に従う事と子供達の助命の因果関係は記されていない。古態本『平治物語』において清盛と常盤が男女関係となったのは子供達の助命決定後の事となっている。なお、『平治物語』諸本においての常盤の言動は、常盤と子供達が姿を消した為に囚われの身になった母親の助命のみに終始しており、子供達の助命を清盛に対して一切申し入れていない。子供達が殺されるのを見るのは辛いから先に自分を殺して欲しいという言動がのみが記されている。また『平治物語』においては子供達の助命の理由が清水寺の観音のご加護であるという点が強調されている。 『義経記』においては清盛の意に従ったがゆえに子供たちがそれなりに身が立つようになったと記されている。 なお、常盤逃亡談は『平治物語』にくわしいが、この物語はもともと清水寺の観音信仰から生まれたものでもともとは『平治物語』とは別個の物語として存在していたものがやがて『平治物語』に組み込まれていったという見解が強い。一方、義経が頼朝に追われた際に常盤母娘が捕らえられたのも一条河崎観音堂であったことから、常盤が深い観音信仰の持ち主であり、清水寺とのつながりも否定できないとする見解もある。 この常盤の逃避行の話はその後室町期の幸若舞の『伏見常盤』『常盤問答』『笛の巻』などによって発展していくことになり、その発展していった常盤の物語はよりいっそう「強い母」という面が強調されていくことになる。
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