豊臣秀吉による天下統一
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「安土桃山時代」の記事における「豊臣秀吉による天下統一」の解説
「豊臣政権」を参照 本能寺の変を知った羽柴秀吉は、いち早く京に駆け付け謀反の首謀者である明智光秀を破った(山崎の戦い)。これにより信長の葬儀を実施するなど織田政権内での主導権を掌握した。織田秀信や織田信雄の後見人として織田家臣団の領地を再編成した秀吉は清洲会議や賤ヶ岳の戦いを経て信長の後継者として地位を固めた。天正11年(1583年)には大坂城の築城を開始する。天正14年(1586年)には関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り、天正18年(1590年)に日本国内の統一を達成した。農民一揆を防止するため刀狩令を出した。京都方広寺の大仏作りを口実とした。全国各地で太閤検地を行い石高制度を導入し、度量衝が統一された。1594年には文禄検地が実施され、検地帳が作成され、記載された高持百姓に耕作権を認めた。郷村の境界線を決める村割が実施された。百姓身分の農民を武士身分の役人が支配する郷村制度が確立した。荘園制は完全に解体し在地土豪の支配は否定され、一地一作人の原則が確立した。田畑以外の農民の屋敷など村の規模が石高で測量された。秀吉は1592年(文禄元年)に人掃令を出して全国的な戸口調査を実施した。1591年(天正19年)に身分統制令を出して兵農分離が推進された。城割りを実施して商人の城下町集住を推進して商農分離が進行した。地方の小城を破壊して論功行賞を名目で転封を実施した。また、文禄元年(1592年)秀吉は、宣教師追放令や海賊禁止令などを発令した。キリスト教を禁教とする殉教者26人の処刑処分や朱印船制度を創設した。明への使者が殺害されたのをきっかけに文禄・慶長の役を起こした。大阪城に朝鮮王子を人質として迎え、朝鮮半島の無害通行権を得たが、朝鮮王は同時に明へも援軍を要請していた。当初は有利に戦を進めたが、進軍先は領地としては魅力が薄く、厭戦気分が遠征軍に蔓延し、明への進軍は行われなかった。工芸品などの技術者達を見いだし、西国大名達は駐屯地で彼らを厚遇したため、役後、各大名の所領に帰化した者もあった。遠征軍に参加しなかった東国大名は勢力を拡大した。 一方、国内は広域商業が発達し、堺・博多・長崎など主要商業都市を豊臣家の直轄地とした。諸大名は領国の経営に力を注ぎ、各地で特産物都市が興隆していった。また、秀吉自身は京を活動の拠点とし茶の湯を始めとする文化活動を自らも積極的に行った。また、鉄砲が西洋から伝来し、南蛮人との交流が開始された。文禄・慶長の役により明は衰退し、従来の輸入品渡来銭(銅銭)に代わり、天正大判など国内独自の金貨や銀貨が製造されて国内に広く流通した。文禄・慶長の役の後、陶法・毛皮加工などのが帰化した技術者達により発展し、文化は新たな時代を迎えた(桃山文化)。
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