ももやま‐ぶんか〔‐ブンクワ〕【桃山文化】
桃山文化
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桃山文化(ももやまぶんか)または安土桃山文化(あづちももやまぶんか)は、織田信長と豊臣秀吉によって天下統一事業が進められていた安土桃山時代の日本の文化である[1]。この時代、戦乱の世の終結と天下統一の気運、新興大名・豪商の出現、さかんな海外交渉などを背景とした、豪壮・華麗な文化が花ひらいた。
注釈
- ^ 『唐獅子図屏風』は、天正10年、織田軍の羽柴秀吉が毛利氏と戦った中国攻めの際に陣屋屏風として携え、本能寺の変により講和する際、毛利輝元に贈ったといわれる。明治維新後、毛利公爵家が明治天皇に献上したところから御物となった武田(1969)p.135。昭和天皇崩御後は御物(皇室所有品)ではなく国有(三の丸尚蔵館保管)となっている。
- ^ 家永三郎は、文化史のうえでは、寛永年間(1624年-1644年)ころまでを桃山時代として扱うのが適切であるとしている。家永(1982)pp.163-164
- ^ 信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしてもなお罪の意識うすかったことや、秀吉が信仰目的というよりは自らの権勢の誇示のために方広寺大仏(盧舎那仏)を建造し、しかも大仏が地震で倒壊した際には仏がいかに無力であることか嘲笑したなどのエピソードにも、この時代の世俗的・脱宗教的ないし反宗教的な時代精神がうかがわれる。芳賀(1979)p.122
- ^ 堺の町人のなかには「債権と俗世の名望を棄てねばならぬなら、天国へなどは行きたくない」と豪語する者があり、博多の町人には「後生願ひ無用に候」と遺言する者があった。さらに「今こそ弥勒の世なりけれ」と現世を強く肯定する民衆もあった。芳賀(1979)p.122
- ^ ドイツ文学者の西尾幹二は、17世紀から19世紀にかけてヨーロッパ諸国でギリシャ・ローマの古典古代文献学が一斉に開花し、そこで得られた方法論を用いて各国民国家の民族文化史が検証されていったのと同様の現象が同時期の日本においても起こったことを指摘している。西尾によれば、伊藤仁斎、荻生徂徠らによる漢学における古代言語文化の再生の営みののち契沖、賀茂真淵、本居宣長らによって国学が大成されていったのであり、これはヨーロッパにおける人文科学の思潮の展開とほぼ軌を一にしている。西尾(1999)pp.14-17
- ^ 『細川両家記』の永正17年正月の伊丹但馬守と野間豊前守が伊丹城で自害する場面の記述に「我等二人は此の城の中にて腹切らんと、四方の城戸をさし、家々へ火をかけ、天守にて腹切りぬ」という文がある。神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター《細川両家記を読む(永正16年~17年)》
- ^ 中世の城は防塞的性格の濃い山城が多かったが、この時代の城は領国支配の利便をも考慮して平山城や平城が多くなり、その役割も、軍事施設としての機能のみならず城主の居館・政庁としての機能を兼備するものに変化した。
- ^ 石垣施工を専門におこなった技術者集団として近江国坂本の穴太衆が有名である。穴太衆のなかには、土佐藩の北川豊後のように家臣として召し抱えられる者もあった。伊藤(1969)p.119
- ^ 天守の外からみる層数と内部の階数が一致しないことがあり、とくに望楼型天守では大きな入母屋屋根の内部に隠れた階のあることが多い。一般には、層は外観の屋根の重なり、階とは内部の床の重なりを指す。五味・野呂(2006)pp.12
- ^ 安土城は、地階の石蔵に仏教建築の宝塔を置き、一階から三階までは御殿で腰は羽目板とし、教会建築を模した南蛮風の吹き抜けを設け、二階空間に張り出し舞台、三階に渡り橋を設けて、宝塔や舞台を見下ろす構造となっていたという説もある。五階は正八角形平面で内側は金、外側が朱で彩色がほどこされ、六階は金閣のような唐様仏堂形式で内外ともに金色に塗られていたと推定される。藤田・古賀編(1999)p.107
- ^ 左官にたずさわってきた壁塗工は従来は賤民的な扱いを受けてきたが、左官工事量の増加にともなって地位を上昇させ、その境遇から脱することができた。伊藤(1969)p.119
- ^ 秀吉は、京都から大坂に都を遷す構想があったとみられ、それによれば、天満に御所や公家屋敷を移し、平野町の両側に五山をはじめとする京都の寺院を移す計画だったと考えられている。藤田・古賀編(1999)pp.106-107
- ^ 十二天守のなかの「丸亀城天守」は、当初「御三階櫓」として建設されたものである。
- ^ 秀吉の利休の信任ぶりは、大友宗麟によれば「内々の儀は宗易(利休)、公儀のことは宰相(豊臣秀長)存じ候」と評されるほどであった。池上(2002)p.285
- ^ 芳賀幸四郎は、この時代の文化について、物質的な巨大性・豪奢性を志向しながらも、その一方で、それとは反対の方向性すなわち「侘び茶」にみられるような精神的な収斂性・簡素性を志向する側面があり、こうした「対立的統一」も桃山文化ならではの特質であると指摘している。芳賀(1979)p.122
- ^ 利休の死については、いのちを賭けた武将・武士の戦功が側近文化人の政治的発言で左右される不合理に憤りの声が高まったことに対する豊臣政権の粛清工作の一環として生じた犠牲という意味をもつとの指摘がある。永島(1969)p.149。また、それまでのキリシタン・商人ネットワークに依存する体制を脱却し、近臣や吏僚直臣による支配体制を強化する立場からは、利休の求道的態度や教養・能力の高さ、また、当時の豪商たちが共通にもっていた自主自尊の精神はむしろ桎梏となった、いわば「商と士の相剋」から悲劇が生じたという見解もある。池上(2002)pp.286-287
- ^ 「利休」の名は、天正13年(1585年)の禁中茶会に参内するために千宗易が正親町天皇より与えられた居士号であった。また、禁中茶会を秀吉に勧めたのは利休であったといわれる。永島(1969)p.148
- ^ 徳川氏からあたえられた織田長益の江戸屋敷跡がのちに有楽町とよばれるようになった。
- ^ 他の茶器・茶道具には、茶碗、茶杓、茶筅、水指、建水があり、香炉・香合・花入なども茶の湯の場では多く用いられた。田中(2009)pp.122
- ^ 待庵は、山崎の戦いののち、秀吉が利休に命じてつくらせたといわれ、利休が造作にかかわったことが確実視されている。『わびと黄金』(1969)p.6
- ^ 秀吉は信長の葬儀を終えた天正10年11月に山崎で利休(宗易)・宗及・宗久および山上宗二とともに茶会をひらいている。林屋(1974)pp.352-353。また、賤ヶ岳の戦いの前に、前田利家が寄親であった柴田勝家の使者として山崎の地を訪れているが、秀吉・利家の会合にも待庵が使用された可能性がある。熱田(1992)p.256
- ^ 才色兼備をうたわれた吉野太夫の夫が太夫を偲んで建てたといわれる。
- ^ 細川藤賢の屋敷にあった藤戸石は、信長入京後、信長が足利義昭の居城として二条城を造営する際、二条城に運び込まれた。その後、秀吉が聚楽第に運び、さらに醍醐の花見に際して醍醐寺に持ち込まれたものである。
- ^ 古来、彩色することを「彩(た)む」といい、「彩む絵」の音韻変化したものが「濃絵」である。絵の具には、紺青・緑青・群青・朱・丹・臙脂・胡粉・黄土があって必ずしも青系統に限らない。また、特殊な材料として金銀泥、金銀箔、墨、雲母などがあった。五味・野呂(2006)p.14
- ^ これらの霊獣は、武田氏の「丸に龍」、北条氏の「虎」、上杉氏の「獅子」といった信長の好敵手であった各氏の印章を意識したものでもあり、そこに「天下」を意識した統一的な精神をみてとることができる。林屋(1969)p.110
- ^ 建仁寺の友松作品は、現在その多くが掛軸になおされて保存されている。
- ^ 祥雲禅寺は、秀吉が夭折した長子棄丸の冥福を祈り、建立された寺であった。武田(1969)p.129
- ^ 永徳の急死により祥雲禅寺(現智積院)の襖絵は等伯一派にまかされることとなった。辻(1969)p.174
- ^ 「洛中洛外図」を制作時期に着目して分類すると、第1期から第4期まで分けられる。第1期は町田本・上杉本などで応仁の乱後約50年の京都の復興ぶりが描かれ、第2期は聚楽第が京都の象徴として登場、第3期は慶長初年ころの様相を示し、二条城と方広寺大仏が描かれる。第4期は江戸初期の情景を示し、二条城とともに祇園会のようすが描かれる。なお寛永以降は風俗画としての生命を失い、単に京都名所図となっていく。五味・野呂(2006)p.15
- ^ 中央2扇は修理のさなか1923年(大正12年)の関東大震災により焼失した。
- ^ そのため、秀吉の朝鮮出兵を別名「焼きもの戦争」と称することがある。
- ^ たとえば、慶長8年(1603年)の『日葡辞書』の「ツジガハナ」の項には「赤やその他の色の木の葉模様や紋様で彩色してある帷子。また、その模様、または絵そのもの」とあり、ある種の文様染めの施された帷子、ないしその文様が本来的な意味での「辻ヶ花」であった。河上(1993)p.88
- ^ 充填的なデザインの一方で白地を活用した新しいデザインも試みられた。河上(1993)p.90
- ^ 「辻ヶ花」初出の絵画資料ではあるが、図像にみえる白い表着は今日でいう辻ヶ花染ではなく、麻地の絞り染めとみられている。
- ^ 『節用集』天正18年版については、国語学者山田忠雄による研究がある。
- ^ 近衛信尹は、織田信長より一字(「信」)を賜り、関白相論により二条昭実と関白位を争ったこともあるが、書画・芸能に通じた文化人であった。
- ^ 毎阿弥と能阿弥の関係は不明であるが、能阿弥・芸阿弥・相阿弥の3代は世襲である。伊藤『いけばな』(1991)p.47
- ^ 初代文阿弥の高弟として宣阿弥と正阿弥の2名が知られ、たがいに名声を競っていた。2代目文阿弥はこの2名のいずれかであった可能性もあるが、詳細は不明である。伊藤『いけばな』(1991)p.53
- ^ 2004年(平成16年)に一度盗難にあったことがある。日本経済新聞社 e-碁サロン「碁界ニュース(2004年4月29日):秀吉と家康対局の碁盤盗難・京都の大徳寺」
- ^ 日海(本因坊算砂)は本能寺の変の前夜、本能寺において信長の御前で日蓮宗僧侶の利玄と碁を打ったといわれている。
- ^ ピックを用いて演奏する中国の三弦に対し、三味線の演奏には撥が用いられるが、これは琵琶法師が琵琶と同じ方法でこの楽器を弾いたためといわれる。小塩(2010)p.35
- ^ 采女を阿国の別称とする説・後継者とする説両方があり、制作年代も慶長・元和・寛永など諸説がある。作者も狩野派・長谷川派両方考えられる。土居次義(美学美術史)は、慶長10年・長谷川派説を採っている。『日本絵画館6』(1969)p.144
- ^ 女歌舞伎についで少年が演じる若衆歌舞伎がさかんになったが、これも禁じられ、17世紀半ば以降は成人男子のみからなる野郎歌舞伎となった。
- ^ 天正9年(1581年)、妻に先立たれた利休に対し、宮王道三は弟三郎の未亡人宗恩の親代わりとなって利休・宗恩の縁組をすすめた。種田(2002)p.49
- ^ 2代将軍徳川秀忠は北七大夫長能を格段の演者として厚遇した。喜多流は金剛家の分家格の待遇で元和年中に創設を認められ、七大夫四男の十大夫のころ、一座として公認されて一流を樹立した。吉村(2001)p.31
- ^ 戦国時代末期の日本語を収録した『日葡辞書』には「Cacho ブタ」と記されており、地方によっては豚(家猪)が飼われていたものとみられる。
- ^ 『細川家御家譜』という文献には、キリシタン大名の高山右近が小田原攻めの際、蒲生氏郷や細川忠興に対し牛肉料理を振舞ったことが記録されている。
- ^ 桑酒、生姜酒、黄精酒(おうせいしゅ)、八珍酒、長命酒、忍冬酒(にんどうしゅ)、地黄酒(じおうしゅ)、五加皮酒(うこぎしゅ)、豆淋酒(とうりんしゅ)などがある
- ^ 天正13年(1585年)、天正遣欧使節は安土城の風景をえがいた狩野派の屏風絵をローマ教皇に贈呈している。家永(1982)p.178
- ^ とくに鉄砲玉をぬきとるような外科手術は従来の日本の医術にはみられないものであった。
出典
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