遠州流とは? わかりやすく解説

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えんしゅう‐りゅう〔ヱンシウリウ〕【遠州流】

読み方:えんしゅうりゅう

茶道流派の一。小堀遠州開祖とし、江戸初期成立した

生け花流派の一。宝暦明和(1751〜1772)期に春秋一葉創始したという。生花(せいか)が主で、の強い湾曲花形特色


遠州流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/28 07:17 UTC 版)

遠州流は、江戸時代初期の茶人・小堀遠州を流祖とする茶道の一派である。遠州は古田織部に師事し、その教えに自身の美意識と創意を加えることで、独自の様式を確立した。遠州の家系はその後も代々茶道を継承し、遠州茶道宗家として現在まで続いている。遠州は徳川三代将軍・家光の茶道指南役を務め、禁中や仙洞御所にも出仕したことから、公家や大名、旗本といった上層武士階級の門人を多く抱えた。関西地方における遠州流は、大正時代初期に高谷宗範によって広く普及した。また、遠州の二世・小堀正之の弟である政尹は「権十郎」と称し、宗家とは別系統ながら著名な茶人として知られている。[1]

小堀遠州の茶道

小堀遠州は、江戸幕府の茶道指南役を務め、徳川家康秀忠家光の三代将軍に仕えながら、将軍家や諸大名に茶の湯を広めた。遠州の茶風は、千利休の「侘び」の精神に、王朝文化の華やかさや雅(みやび)を融合させたものであり、後の時代に「綺麗寂び」と呼ばれる[2]

また、「茶道」は千利休古田織部の時代には「茶の湯」と呼ばれる大名や町人の嗜みであったが、小堀遠州が書捨の文の中で「茶の道」と呼称してその精神性を説き、現代の芸能である「茶道」に繋がる転換を図った[3]

加えて、小堀遠州は茶道だけでなく、作事奉行として桂離宮仙洞御所二条城名古屋城などの建築・造園にも携わり、日本の美意識の形成に大きな影響を与えた。さらに、茶道具の鑑定や高取焼膳所焼丹波焼信楽焼伊賀焼志戸呂焼などの国焼の茶陶の指導にも尽力し、茶の湯の発展に大きく寄与した。

この美意識を受け継ぎながら、遠州流は武家の作法や礼法を重んじる茶道として発展し、現代に至るまで「綺麗さび」の精神を伝え、国内外で茶道の普及・文化交流を行い、伝統文化の継承と発展に努めている。

小堀遠州の門人

徳川家光小堀正行、小堀政尹、沢庵和尚江月和尚瀧本坊昭乗、古筆了雪(古筆鑑定家。古筆了佐の五男)[4]狩野守信佐川田昌俊黒田正玄、山田大有、大森秀祐(漸齋)、神尾元勝 (出典:『読史備要』[5]

遠州流茶道

特徴

遠州流は江戸時代初期の大名茶人で総合芸術家として有名な小堀遠州を流祖とする日本を代表する大名茶道です。流祖以来440年の歴史を持ち、格式ある茶道として今日まで受け継がれています。
 遠州流の真髄は、「綺麗さび」と称され、「わび・さび」の精神に、美しさ、明るさ、豊かさを加え、誰からも美しいと云われる客観性の美、調和の美を創り上げたことにあります。
 遠州流の理念は、「稽古照今(けいこしょうこん)」(古を稽えて、今に照らす)という言葉に表現されます。先人が築き上げた伝統を正しく受け継ぎ、現代に活かし、新しい創造をすることです。[6]

歴史

 遠州流茶道は初代・小堀遠州以来、歴代の当主が茶道に造詣が深く、遠州流の茶道を正統に受け継ぎながら、その美意識と茶法を現代まで伝承している[7]。小室藩6代(遠州茶道宗家7世小堀政方)が伏見騒動を引き起こして改易され、大名家としての系譜は途絶えている[8][9]伏見騒動から40年後、小堀遠州の異母弟小堀正春の子孫である小堀仁右衛門家出身の6世小堀政寿(5世小堀政峯の孫。小堀惟貞の次男で、小堀政峯に養子入り後廃嫡[10])の子小堀宗中が遠州流の本家[11]の名跡を再興している[12]。天保3年9月には徳川家斉公に拝謁し、安政4年御先手鉄砲頭(役高1500石)の役職を務めた[13]
 茶道においては歴代が多くの作品を残すほか、江戸時代には大名や旗本を中心に[14]、明治時代以降には一般へ遠州流を広めてきた。平成25年に全国52支部による「遠州流茶道連盟」が組織され、遠州流の結集をすすめている。現在、遠州流茶道は武家茶道において最大の流派である。また、光悦会、大師会などの日本を代表する茶会で釜を掛けている[15][16]。現在の遠州流の家元は、十三世・小堀宗実(こぼり そうじつ)宗匠であり、日本国内および海外で茶道の普及・指導を行っている。
 遠州流の家元である遠州茶道宗家は東京都新宿区若宮町にある。遠州流の組織としては、同門組織である「遠州流茶道連盟」、小堀遠州を顕彰する「公益財団法人小堀遠州顕彰会」、そして職方の組織である「向栄会」が存在している。
 小堀家二代目(2世大膳宗慶)以降は廣徳寺に葬られ、遠州茶道宗家が墓を守っている[17]

歴代当主

小堀遠州が築いた茶の湯の精神と作法は、歴代の当主によって守られ、今日に至るまで受け継がれている[18]。現在の遠州流の家元は、遠州茶道宗家十三世小堀宗実氏である[19]

世   号       名   生没年     備考
1世 小堀 遠州 えんしゅう 正一 1579-1647 流祖
2世 小堀 宗慶 そうけい 正之 1620-1674 遠州の長男。書に秀で、後水尾天皇の前で揮毫。遠州の遺物整理や茶道の継承に尽力。[20]
3世 小堀 宗実 そうじつ 正恒 1649-1696 茶器整理を行い、「遠州蔵帳」の基礎を作る。書や茶道に精通し、諸大名と交流。[21]
4世 小堀 宗瑞 そうずい 正房 1685-1713 10歳で家督を継ぐ。将軍の御前で「論語」を講釈するなど才能を発揮するも、29歳で早逝。[22]
5世 小堀 宗香 そうこう 正峯 1690-1760 若年寄として幕閣で活躍し、遠州流茶道を厳格に継承。[23]
6世 小堀 宗延 そうえん 政寿 1734-1806 遠州の弟・小堀正春の系統である仁右衛門家から養子入り(母は五世宗香の娘)。遠州流茶道の精進に努める。[24]
7世 小堀 宗友 そうゆう 政方 1742-1803 「喫茶式」や「数寄記録」などの伝書を編纂し、遠州流茶道の体系を整理するなど、茶道の継承に大きく貢献した。[25]
8世 小堀 宗中 そうちゅう 正優 1786-1867 小堀宗延(6世)の子。長く浪々の身であったが、幕臣として復帰し、小堀家の名跡を再興。[26]
9世 小堀 宗本 そうほん 正和 1813-1864 書・絵画・茶道に精通し、遠州の筆跡を再現できるほどの技量を持つ。[27]
10世 小堀 宗有 そうゆう 正快 1858-1909 遠州流茶道の一般公開を決意し、普及に努める。[28]
11世 小堀 宗明 そうめい 正徳 1888-1963 東京で茶道界の重鎮として活躍し、流儀の発展に尽力。[29]
12世 小堀 宗慶 そうけい 正明 1923-2011 「国民皆茶」を掲げ、茶道の普及と研究に努める。名物裂や茶花の研究にも貢献。[30]
13世 小堀 宗実 そうじつ 正晴 1956- 現家元。国内外で茶道の普及に尽力し、青少年向け「遠州流茶道こども塾」を展開。[31]

小堀遠州流

特徴

将軍の茶道指南役を務めた小堀遠州の武家茶の系譜を受け継ぎ、綺麗寂びの美意識を反映した遠州好と呼ばれる茶道具が置き合わせされた茶室に入ると、寛永文化の洗練された美しさを感じることが出来るとされる[32]

小堀遠州が拠点としていた伏見奉行屋敷にあった茶室「転合庵」の上段の間付三畳台目席[33]に常什の「転合庵棚」は、質素でありながらも遠州の美意識や遊び心を反映しており、加えて台目席に水指棚を用いるという革新性も兼ね備えており、小堀遠州流の茶会では写しのものをしばしば用いる。

袱紗を右につけ、茶碗に茶筅を仰向けで仕込み、茶杓を伏せてのせるところは古田織部以降の武家茶道に共通する伝統であるが、加えて弓道や剣術にも共通する「爪揃え」と呼ばれる道具の持ち方や「指建礼」など遠州以来の武家の作法が多く取り入れられているのが特徴である[34]

道具の扱いについては、特に茶筅置き茶碗の扱い[35]や五段柄杓の法[36]など、小堀遠州や歴代の古書に見える伝統的な点前を現代に受け継いでいる。

歴史

初代小堀遠州から同母弟小堀正行に伝わり、その後も歴代当主に正統に受け継がれた流派である[37]。「槍の治左衛門」と呼ばれた2世正行のように武家として活躍しながらも、多賀大社の造営奉行を努めた3世小堀正十や、特別名勝栗林公園の造園を担ったとされる4世小堀政孝など、茶道に加え、小堀家らしく建築・作事を得意としてきた[38]

茶道においても、歴代当主が遠州流の茶を正統に受け継ぎ、遠州直系が当主となってからは小堀家惣領としても活躍した[39]。 12世小堀宗舟が明治維新後に「家元」として名乗りを上げ、平瀬露香を世話役として遠州流茶道保存会を立ち上げ、東京と関西を中心に、時には山口・萩に出向いて遠州流の普及に務めた[40][41]

その後、一時「遠州茶道宗家」を家元とする遠州流茶道の別家家元とされた時期もあったが、昭和27年(1952年)2月より小堀遠州流家元機関誌を発行するなど独自に活動を続け、昭和37年(1962年)に改めて「遠州茶道宗家」と異なる遠州流系の家元であることを宣言した[42]

家元は東京都練馬区にあり、同門組織は松籟会という[43]。は武家茶道を代表する四派の1つとして、柳営茶会において毎年釜を掛けている[44]など、将軍指南役を務めた遠州流を正統に現代まで伝えている。

また、松殿山荘流(しょうでんさんそうりゅう)は、小堀遠州流第12世小堀宗舟の弟子である高谷宗範が創始し、現在は公益財団法人松殿山荘流茶道会として活動している[45]。この他、京都には小堀遠州流から派生した組織として、大徳寺龍光院及び大慈院に伝わる「遠州流 遠州会」があり、祇園祭の宵山では菊水鉾の会所にて釜を掛けている。

歴代家元

遠州の同母弟で、「槍の治左衛門」と称される武勇の持ち主であり、父小堀正次に遠州と共に連れられて茶の湯を学び、遠州の茶を身近で吸収した。知行は3,000石となり幕末まで続いた。
宗虎の嫡男で、茶道のみならず建築などにも才能を発揮し、多賀大社の造営奉行を務めた[46]
宗貞の嫡男で、諸大名と交流して茶道を嗜み、遠州形の茶杓を残した他、作事にも優れ、栗林公園を遠州流の庭園として作り上げた[46]
宗貞の次男で、茶道のみならず普請などに優れた[46]
宗功の嫡男で、父政利から茶道を学び、よく遠州流の継承に努めた[46]
本家である小室藩5代藩主で幕府若年寄宗香の次男(長男は早世)で、遠州の直系の玄孫にあたり、養子入りしたが17歳で没する[46]
従五位下山城守宗香の五男(長男、三男、四男は早世)で、遠州の直系の玄孫であり遠州茶道宗家の宗友の兄にあたる。父政峯からの教えを受け、家中に本家の茶道を広めた[46]
従五位下河内守宗信の長男.。
宗道の長男で、小堀氏の惣領として、幕府の「寛政重修諸家譜」の家譜調査に小堀家系譜を呈譜して遠州以来の小堀家の事績を後世に残した[46]
  • 小堀宗圓(そうえん)(1799-1851)
宗勇の長男で、病身のため惣領を引いたため、歴代家元には数えていないが茶をよくする[46]
宗圓の長男で、本家改易後の遠州流の正統な継承に努めたが若くして没した。
宗圓の次男で、将軍徳川家慶家定家茂慶喜の4代に仕え、黒船来航時の国書受け取り(1853年)、老中阿部正外に付き従って上洛(1863年)、使番としての長州征討従軍(1864年)など旗本筆頭としての働きを見せた。
明治維新後も徳川家に忠義を尽くし、16代徳川家達駿府入府に付き従って、徳川家の再興に尽力した。明治6年に東京に戻ってからは、徳川家の依頼で荒廃していた上野東照宮の復興を手がけるとともに、下谷練塀町の屋敷で遠州流を正統に受け継ぐ家元として、一般への茶道教授を開始した。
また、茶道普及のために関西に赴き、明治28年には、京都・大徳寺孤篷庵にて遠州没後250年祭を催した。弟子に茶道家の小文法師や高谷宗範などがいたほか、近代数寄者の代表格である安田善次郎や平瀬露香などと茶会に招待し合うなどの交流を持つとともに、遠州流茶道保存会を立ち上げ、遠州の茶の湯を正当に継承する茶人として活躍した[47]
  • 13世:小堀宗博(そうはく)(1880-1922)
小堀宗舟の次男(長男は夭折)で、父に従い京都の伏見大徳寺龍光院孤篷庵などで教場を開き、正統な遠州流の普及に努めた。
小堀宗舟の三男で、若年期は関西で遠州流の普及に努める父に従って大徳寺孤篷庵で活動した。東京に戻ってからは高円宮妃に茶道を教授した他、作庭にも優れ各地の庭園を手がけた。また、定家様の書は当代随一で、華道においては遠州の古書を元に剣山を開発したり、盆石においても遠州流を興すなど、総合芸術家として名を馳せた[34]
宗忠の長男で、家元後援会松籟会を立ち上げ、機関紙松籟を創刊。柳営茶会において、将軍の茶道指南役を務めた遠州の茶を正しく伝え、国内外においても多数の茶会を催し茶道の発展に努めた。また、遠州以来の古書の整理や公開、出版を通して遠州流の伝統を世に広めた[34]
当代家元。柳営茶会での掛釜など小堀遠州の茶道を正しく受け継ぎつつ、遠州の茶を広く普及させるため、国内外で釜を掛けるなどの活動を行う。


大和遠州流

小堀遠州の三男・小堀政尹の流れを汲み、高弟たちによって受け継がれた流派で、現在は北海道に本部を置き活動している。

玉川遠州流

小堀遠州の門人、大森漸斎を初代とする流派で、かつては、遠州流大森家茶道と称していたこともある。石川丈山煎茶を学んだことから、抹茶道と煎茶道の両方が伝わる 。



脚注

  1. ^ 『茶道辞典』(初版)株式会社淡交社、京都市北区堀川通鞍馬口上ル、1979年9月20日、106頁。 
  2. ^ 小堀宗通著 小堀遠州の茶道(浪速社)
  3. ^ https://koborienshu-ryu.com/about/eg007.html
  4. ^ 古筆了雪筆書状”. Keio Object Hub. 慶應義塾ミュージアム・コモンズ. 2023年10月8日閲覧。
  5. ^ 東京大学史料編纂所 編『読史備要』講談社、1966年3月30日、1068頁。NDLJP:3007343/556 (要登録)
  6. ^ 遠州流茶道とは – 遠州流茶道”. www.enshuryu.com. 2025年6月22日閲覧。
  7. ^ 遠州流茶道連盟. “小堀遠州と歴代当主”. 遠州流茶道連盟. 2025年6月22日閲覧。
  8. ^ 遠州流茶道連盟. “小堀遠州と歴代当主”. 遠州流茶道連盟. 2025年6月22日閲覧。
  9. ^ 遠州流茶道宝典 東京堂出版、1983、87-88頁
  10. ^ 寛政重修諸家譜巻第千二十四
  11. ^ 茶道辞典 淡交社、1979、307頁
  12. ^ 続徳川実紀 第2篇 文恭院殿御実紀 63巻 文政11年12月16日 1905, p. 732.
  13. ^ 小堀家系図及事蹟 & 1923-6-25, p. 15.
  14. ^ 茶道の歴史 茶道体系二 1999, p. 158.
  15. ^ 月刊「遠州」
  16. ^ 茶道雑誌
  17. ^ 茶道の源流「六家元の系譜 第1巻(歴史篇)」 淡交社 1983.
  18. ^ 遠州流茶道連盟. “小堀遠州と歴代当主”. 遠州流茶道連盟. 2025年6月22日閲覧。
  19. ^ 遠州流茶道連盟. “十三世 小堀正晴(宗実)”. 遠州流茶道連盟. 2025年6月22日閲覧。
  20. ^ 『遠州流茶道宝典』東京堂出版、1983年、76-79頁。 
  21. ^ 『遠州流茶道宝典』東京堂出版、1983年、82頁。 
  22. ^ 『遠州流茶道宝典』東京堂出版、1983年、83頁。 
  23. ^ 『遠州流茶道宝典』東京堂出版、1983年、84-85頁。 
  24. ^ 『遠州流茶道宝典』東京堂出版、1983年、86-87頁。 
  25. ^ 『遠州流茶道宝典』東京堂出版、1983年、87頁。 
  26. ^ 『遠州流茶道宝典』東京堂出版、1983年、88-91頁。 
  27. ^ 『遠州流茶道宝典』東京堂出版、1983年、92頁。 
  28. ^ 『遠州流茶道宝典』東京堂出版、1983年、94頁。 
  29. ^ 『遠州流茶道宝典』東京堂出版、1983年、95頁。 
  30. ^ 『遠州流茶道宝典』東京堂出版、1983年、96頁。 
  31. ^ 13世 小堀宗実 – 遠州流茶道”. www.enshuryu.com. 2025年6月22日閲覧。
  32. ^ 松籟 随筆(小堀宗通著 浪速社)
  33. ^ 伏見転合庵の記 小堀宗忠著
  34. ^ a b c 小堀遠州の茶道(小堀宗通著 浪速社)
  35. ^ 小堀政方筆 数寄記録
  36. ^ 小堀遠州置き合わせの留
  37. ^ 小堀遠州の茶道(小堀宗通著 浪速社)
  38. ^ https://koborienshu-ryu.com/about/ryuha.html
  39. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第千二十四
  40. ^ 松翁茶会記(安田保善社)
  41. ^ 小堀遠州の茶道(小堀宗通著 浪速社)
  42. ^ 小堀遠州の茶道(小堀宗通著 浪速社)
  43. ^ https://koborienshu-ryu.com/about/ryuha.html
  44. ^ https://ryuueikai.org/event/chakai/
  45. ^ 渡辺虹衣著 高谷宗範伝(昭和10年)
  46. ^ a b c d e f g h 寛政重修諸家譜巻第千二十四
  47. ^ 松翁茶会記(安田保善社)

参考文献

  • 小堀宗通『小堀遠州の茶道』浪速社
  • 小堀宗通『松籟随筆 茶道編』村松書館
  • 小堀宗慶「遠州流」『日本の茶家』河原書店
  • 小堀宗通「小堀遠州流」『日本の茶家』河原書店
  • 戸川宗積『日本の茶道の流れ』大絖書房
  • 宮帯出版社編集部「茶道家元系譜」『茶湯手帳』宮帯出版社
  • 藤岡屋日記

麻渓山本寛『小堀家系図及事蹟』山本寛、1923年6月25日。  成島司直 等編『続徳川実紀 第2篇』経済雑誌社、1905年。  石田雅彦『茶道の歴史 茶道体系二 「三春藩士と小堀家二家との茶湯の交流」』株式会社 淡交社、1905年。ISBN 4-473-01662-5 

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