遠州流の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 21:16 UTC 版)
5世正峯は、家継・吉宗・家重の3代に仕え、若年寄を2度務めるなど幕閣の一員として活躍し、譜代大名並の格式を許された人である。しかし7世正方は田沼意次のもとで大番頭や伏見奉行の要職を務めたが、伏見騒動によって天明8年(1788年)改易されることになる。ここに大名家としての小堀家は断絶することになった。 8世正優は6世正寿の子で、3歳のときに小堀家は改易となる。以後40年間浪人となったが、文政11年(1828年)に300俵で小普請組の御家人として迎えられ、糊口を凌ぐために茶道を教授するなどして本家を再興した。尾張徳川家第12代・徳川斉荘に招かれて目利きを行い、その城代家老竹腰篷月に相伝するなど、大名旗本、公家などに幅広く茶道教授を行い遠州流中興と称せられる。10世宗有のとき、明治維新により士族となり、遠州流の茶道を広く一般に教授することになる。
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