江月宗玩とは? わかりやすく解説

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こうげつ‐そうがん〔カウゲツソウグワン〕【江月宗玩】

読み方:こうげつそうがん

[1574〜1643]江戸初期臨済宗の僧。茶人。号、欠伸子・慒袋子・赫々子など。津田宗及の子大徳寺住持を父や小堀遠州学び詩文・書にも秀でた


江月宗玩

読み方こうげつ そうがん

江戸前期臨済宗の僧。大徳寺五十六世。和泉堺生。津田宗及の男。幼名は道丸、のち春江月は字、宗玩は諱、号に欠伸子・〓(左・慎、右・曹)袋子等春屋宗園について得度大徳寺出世し後水尾天皇より大梁興宗禅師の号を特賜される。紫衣事件の際、幕府抗議し沢庵宗彭らの赦免尽力した。父宗及より台子伝を受け、小堀遠州黒田正玄らに伝える。寛永20年(1643)寂、70才。

江月宗玩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/21 13:41 UTC 版)

江月 宗玩(こうげつ そうがん、天正2年11月8日1574年11月21日) - 寛永20年8月19日1643年10月1日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗大徳寺住持の豪商で織田信長豊臣秀吉に茶頭として仕えた津田宗及の子。天王寺屋を継いだ津田宗凡は兄。俗名は宗丸。幼名を道丸、次いで春松。号に欠伸子、慒袋子、赫々子など。は大梁興宗禅師。

生涯

幼少より大徳寺の僧春屋宗園に師事し、15歳の時に剃髪して宗玩を名乗る。1610年に大徳寺156世住持となり、1611年の春屋の死去により黒田家の菩提寺、塔頭龍光院を継ぎ、字を江月とした。翌1612年に黒田長政の援助を得て龍光院内に小堀遠州孤篷庵を開山。大徳寺塔頭の総見院筑前博多崇福寺、筑前秋月の古心寺、筑前直方の雲心寺、江戸品川の東海寺などを経て、1643年に隠棲していた龍光院の庵にて死去した。

宗玩は当代一流の文化人として知られ、特にその書は沢庵宗彭、清巌宗渭とともに茶掛として流行した。また、茶の湯を父の津田宗及古田織部小堀遠州に学び、千宗旦とも交流して堀直寄黒田高政[要曖昧さ回避]らを弟子とした。松花堂昭乗狩野探幽との親交も知られる。紫衣事件では沢庵、玉室宗珀らとともに幕府に抗議して詰問を受けたが、ひとり許されている。

江月の語録『欠伸稿』は著名である。



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