あたごひゃくいん〔あたごヒヤクヰン〕【愛宕百韻】
愛宕百韻
愛宕百韻
愛宕百韻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/07 15:33 UTC 版)
愛宕百韻(あたごひゃくいん)は、本能寺の変の直前に愛宕山で明智光秀が張行した連歌『賦何人百韻』の通称である。「明智光秀張行百韻」「天正十年愛宕百韻」とも。
概要
天正10年(1582年)5月24日(あるいは27日、28日)[1]、明智光秀が山城国愛宕山五坊の一つである西之坊威徳院で、明智光慶、東行澄、里村紹巴、里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、宥源、威徳院行祐と巻いた百韻である。表向きは毛利征伐の戦勝祈願、実は織田信長を本能寺で破るための明智光秀の祈願をひそかにこめたものと伝える[2]。
発句は光秀の「ときは今 あめが下しる 五月かな」、脇は行祐の「水上まさる 庭の夏山」、第三は里村紹巴の「花落つる 池の流を せきとめて」。発句は、明智の姓の「土岐」をいいかけて、「雨が下」に「天が下」をいいかけて、主人織田信長の殺害という宿願の祈請のものであるといい、紹巴はこのために責問を受けたという。また発句の「あめが下しる」を「あめが下なる」に改めたという[要検証 ]。続群書類従に収める。
最も世間によく知られた連歌とされる[1]。光秀の真意や、「あめが下しる」と「あめが下なる」のどちらであったかは議論があり[1][3]、勢田勝郭は、もし発句が「天が下しる」なら、信長に代わって天下人たろうとする光秀の意思が、その披露の瞬間に、一座の全員に共有されるので、「天が下なる」でなければならないと主張する[1]。『惟任退治記』では以下のように書かれている。「さて五月二十八日、光秀は愛宕山に登り、連歌一座を興行した。光秀の発句。時は今 天下しる 五月哉 いまこれを推量すると、この句がまさしく謀反の兆しであった。そのとき誰が彼の企みに気づいただろうか」(扨五月廿八日。登愛宕山。催一座之連歌。光秀發句云。時ハ今天下シル五月哉 今思惟之。即誠謀反之先兆也。何人兼悟之哉)[4]。
「天が下しる」は天下を治めるという意味で、光秀の決意を示し、「時は今、土岐の一族である自分が天下を治めるべき季節の五月となった」の意であるが、「天が下なる」の場合は、「時は今、雨が下である五月」の意で、五月雨の光景となる。光秀失脚後、本能寺の変を事前に承知していたということで責められた紹巴が、もとは「天が下なる」であったのを光秀があとで「しる」に書き換えたと申し開きをしたなど、『三曉庵随筆』ほかの諸書にさまざまの伝説が見える[5]。
現在流布している『信長公記』では、発句は「ときは今 あめが下知る 五月哉」、脇は行祐の「水上まさる 庭のまつ山」、第三は里村紹巴の「花落つる 流れの末を 関とめて」となっている。連歌の規則では、発句と脇は同季でなければならないが、脇句「水上まさる 庭のまつ山」では、無季となってしまい、明白に不可である[1]。第三「花落つる 流れの末を せきとめて」には、「花が落ちつもったことだ。遣り水の流れの先をせきとめて〈ご謀反をおとどめしたい〉[6]」や「花が落ちるが、その花で流れて行く≪謀反の≫水をせきとめたいものだ[7]」といった解説が見られる。
張行日に関しては、『惟任退治記』『信長公記』以下、諸々の編纂された史書の類は一致して、「5月28日」となっているが、愛宕百韻の写本には「5月28日」となっているものはなく、続群書類従本と国会図書館本は「5月27日」で、それ以外は「5月24日」である[1]。
関連文献
- 山田孝雄『連歌概説』岩波書店、1937年、NCID BN04022714[1](再刊、1980年、 NCID BN10260604)。
- 島津忠夫 校注『連歌集』新潮社〈新潮日本古典集成〉、1979年、 ISBN 4106203332[1](新装版、2020年、 ISBN 978-4106208621)。
- 金子兜太「天正十年愛宕百韻」『波』第13巻第12号(通算120号)、1979年12月、16-18頁。
- 籬悠子(秋里悠児)「愛宕百韻を讀む」『丹波』第21号、2019年、66-68頁、 NAID 40022119436。
- 勢田勝郭「『愛宕百韻』の注解と再検討」『奈良工業高等専門学校紀要』、第55号、2020年3月、41-28頁、 ISSN 0387-1150。
関連項目
脚注
- ^ a b c d e f g h i 勢田勝郭「『愛宕百韻』の注解と再検討」『奈良工業高等専門学校紀要』、第55号、2020年3月、41-28頁、 ISSN 0387-1150。
- ^ 島津忠夫『連歌集』新潮社1979年、p.316
- ^ 田中隆裕「愛宕百韻は本当に「光秀の暗号」か? ― 連歌に透ける光秀の腹のうち」『歴史読本』第45巻第12号(通算727号)、2000年8月、170-175頁、 NAID 40003828019
- ^ 大村由己著・金子拓解説・訳注「原文と現代語訳で読む『惟任退治記』」『ここまでわかった! 明智光秀の謎』株式会社KADOKAWA2014年電子書籍版
- ^ 島津忠夫『連歌集』新潮社1979年、p.317
- ^ 訳者 榊山潤『信長公記(全)』筑摩書房2017年電子書籍
- ^ 志村有弘『信長公記の世界 信長戦記』ニュートンプレス2003年、p.201
外部リンク
- 『集連』収録「愛宕百韻」写本 - 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
- 『愛宕百韻-1714043』 - コトバンク
- Matsuyama hideyuki (2012年6月25日). 京都愛宕研究会 「愛宕百韻連歌会」 - YouTube
愛宕百韻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:29 UTC 版)
『信長公記』にも、亀山城出陣を前にして愛宕権現に参籠した光秀が翌日、威徳院西坊で連歌の会を催したとある。この連歌は「愛宕百韻」あるいは「明智光秀張行百韻」として有名であるが、光秀の発句「ときは今 天が下知る 五月哉」の意味は、通説では、「とき(時)」は源氏の流れをくむ土岐氏の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は「天(あめ)が下(した)治る(しる)」であり、すなわち「今こそ、土岐氏の人間である私が天下を治める時である」という大望を示したものと解釈される。光秀の心情を吐露したものとして、野望説の根拠の1つとされる。『改正三河後風土記』では、光秀は連歌会の卒爾に本能寺の堀の深さを問うと云い、もう一泊した際に同宿した里村紹巴によれば、光秀は終夜熟睡せず嘆息ばかりしていて紹巴に訝しげられて佳句を案じていると答えたと云うが、これはすでに信長が本能寺に投宿するのを予想して謀反を思案していたのではないかとした。 ときは今 天が下知る 五月哉 光秀 水上(みながみ)まさる 庭のまつ山 行祐 花落つる 池の流を 堰とめて 紹巴 かせは霞を 吹をくるくれ 宥源 春も猶 かねのひゝきや 消ぬらん 昌叱 かたしく袖は 有明の霜 心前 — 『愛宕百韻』より一節 『常山紀談』にも「天正10年5月28日、光秀愛宕山の西坊にて百韻の連歌しける。ときは今あめが下しる五月かな 光秀。水上(みなかみ)まさる庭のなつ山 西坊。花おつる流れの末をせきとめて 紹巴。明智土岐姓なれば、時と土岐を読みを通わせてハ天下を取るの意を含めり」とある。秀吉は光秀を討取った後、連歌を聞いて怒って、紹巴を呼んで問い詰めたが、紹巴は発句は「天が下なる」であり「天が下しる」は訂正されたものであると涙を流して詭弁を言ったので、秀吉は許したと云う。 解釈 百韻は神前奉納されて写本記録も多く史料の信憑性も高いが、一方で連歌の解釈については異論が幾つかある。そもそもこれは連歌であり、上の句と下の句を別の人が詠み、さらに次の人と百句繋げていくというものであって、その一部に過ぎない句を取り出して解釈することに対する批判が早くからあった。桑田忠親は「とき=時=土岐」と解釈するのは「後世の何びとかのこじつけ」で明智氏の本姓土岐であることが有名になったのはこのこじつけ発であるとした。明智憲三郎は句は「天が下なる」の誤記であり、「今は五月雨が降りしきる五月である」という捻りの無いそのままの意味であったと主張する。 他方で、津田勇は『歴史群像』誌上「愛宕百韻に隠された光秀の暗号―打倒信長の密勅はやはりあった」で、連歌がの古典の一節を踏まえて詠まれたものであると指摘。発句と脇句は『延慶本平家物語』の一文を、次の紹巴は『源氏物語花散里』の一文を、その他にも『太平記』『増鏡』など多く読み込まれている作意は、朝敵や平氏を討ち源氏を台頭させるという寓意が込められているとし、(発句の通説解釈は間違いかもしれないが)百韻は連衆の一致した意見として織田信長を討つという趣旨で、通説の構図は間違っていないと主張する。これらは全体としては朝廷守護説や源平交代説などに通じるものである。また立花京子は、「まつ山」ではなく「夏山」である場合であるが、脇句が細川幽斎が以前に詠んだ句との類似を指摘している。 「明智光秀#愛宕百韻の真相」および「愛宕百韻」も参照
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