本能寺の変~山崎の戦い関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:47 UTC 版)
「明智光秀」の記事における「本能寺の変~山崎の戦い関連」の解説
明智藪 胴塚:明智藪から街道筋を坂本城の方向へ2km北上した京都市山科区勧修寺御所内町にあり、光秀の胴体部分を埋葬したと伝わる。江戸時代に広まった『明智軍記』の載る、鑓で刺され深手を負った光秀がしばらく進んで絶命したという記述に基づき、明智藪から近距離に後世に里人が作った供養塔だと評されている。 首塚京都府亀岡市宮前町の谷性寺に、溝尾茂朝が光秀の首を持ち帰って埋葬したと伝わる。 大阪府高石市の「光秀(こうしゅう)寺」門前の由来によれば、その助松庵が現在の「光秀寺」の地に移転したと書かれており、門内の石碑には「明智日向守光秀公縁の寺」と書かれている。この地域に残る『和泉伝承志』によれば、本稿「山崎の戦い」に書かれている光秀とされる遺体を偽物・影武者と否定し、京都妙心寺に逃げ、死を選んだが誡められ、和泉貝塚に向かったと書かれている。光秀と泉州地域との関連では、大阪府堺市西区鳳南町三丁にある「丈六墓地」では、昭和18年(1943年)頃まで加護灯籠を掲げての光秀追善供養を、大阪府泉大津市豊中では徳政令を約束した光秀に謝恩を表す供養を長年行っていたが、現在では消滅している。 光秀が愛宕百韻の際に亀岡盆地から愛宕山へ上った道のりは「明智越え」と呼ばれ、現在ではハイキング・コースになっている。 本能寺の変の際、摂丹街道まで行軍していた丹波亀山城からの先陣が京都へ向かって反転した能勢方面へ向かう法貴峠の旧道(亀岡市曽我部町)には多くの大岩があり、これらの巨岩が行軍の障害となり引き返したと「明智戻り岩」と呼ばれた岩が残されている。
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