本能寺の変以後とは? わかりやすく解説

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本能寺の変以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 21:05 UTC 版)

細川幽斎」の記事における「本能寺の変以後」の解説

天正10年1582年)に本能寺の変が起こると、孝は上役であり、親戚でもあった光秀再三要請断り剃髪して雅号を幽斎玄旨ゆうさいげんし)とし、田辺城隠居忠興家督譲った同じく光秀と関係の深い筒井順慶参戦断り軍事力劣勢に陥った光秀山崎の戦い敗死した。『老人雑話』には「明智(光秀)始め(は)細川幽斎の臣なり」とあり、両者出自の上下関係は歴然としていることから、幽斎には光秀支配下に入ることを潔しとしないところがあったとする説がある。一方丹波半国の一色氏明智方に加担した秀吉の命を受けた細川氏同年9月一色義定謀殺し、弓木城など一色氏領土併合した前出のように一色義定孝の娘婿であったその後羽柴秀吉豊臣秀吉)に重用され天正14年1586年)に在京料として山城西ヶ岡に3000石を与えられた。天正13年1585年)の紀州征伐天正15年1587年)の九州平定にも武将として参加したまた、梅北一揆の際には上使として薩摩国に赴き、島津家蔵入地改革行っている(薩摩御仕置)。この功により、文禄4年1595年)には大隅国3000石を加増された(後に越前国府中移封)。 幽斎は千利休木食応其と共に秀吉側近文化人として寵遇された。忠興三斎)も茶道造詣深く利休高弟一人となる。一方で徳川家康とも親交があり、慶長3年1598年)に秀吉死去する家康接近した慶長5年1600年6月忠興家康会津征伐丹後から細川家軍勢を引きつれて参加したため、幽斎は三男細川幸隆と共に500満たない手勢丹後田辺城を守る。7月石田三成らが家康討伐兵を挙げ大坂にあった忠興夫人ガラシャ包囲され屋敷火を放って自害した田辺城小野木重勝前田茂勝らが率い1万5000人の大軍包囲されたが、幽斎が指揮する籠城勢の抵抗激しく攻囲軍の中には幽斎の歌道弟子多く戦闘意欲乏しかったこともあり、長期戦となった田辺城の戦い)。 幽斎の弟子一人だった八条宮智仁親王7月8月2度わたって講和働きかけたが、幽斎はこれを謝絶して籠城戦継続使者通じて古今集証明状』を八条宮贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷献上した。ついに八条宮が兄後陽成天皇奏請したことにより三条西実条中院通勝烏丸光広勅使として田辺城下され関ヶ原の戦い2日前の9月12日勅命による講和結ばれた。幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦終えて9月18日に城を明け渡し敵将である前田茂勝丹波亀山城入った。幽斎の抵抗通して家康統治権代行正当性が、朝廷はじめとして各方面周知されることとなった点は石田三成にとって大きな痛手となった忠興関ヶ原の戦いにおいて前線石田三成の軍と戦い戦後豊前国小倉藩399000石の大封得たこの後長岡氏細川氏復し以後長岡姓は細川別姓として一門重臣授けられた。その後の幽斎は京都吉田悠々自適晩年送ったといわれている。慶長15年1610年8月20日京都三条車屋町自邸死去享年77

※この「本能寺の変以後」の解説は、「細川幽斎」の解説の一部です。
「本能寺の変以後」を含む「細川幽斎」の記事については、「細川幽斎」の概要を参照ください。

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