本能寺の変の黒幕説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:49 UTC 版)
詳細は「本能寺の変#変の要因」を参照 本能寺の変で最終的に最も得をした秀吉が事件の黒幕とする説もある。その根拠は、秀吉の信長に対する不要な援軍要請である。秀吉は備中高松城攻めのとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが高松城の救援に出てきたため、信長に苦境を訴え援軍を要請。ところが当時の毛利氏が高松城救援に用意できた兵力は羽柴軍の半分の15,000ほどでしかなく、救援は不要であった。信長は三職推任問題や皇位継承問題などで朝廷と頻繁に交渉していたため上洛していた。明智光秀はそこを狙って本能寺の変を起こしたが、軍勢を集める理由が問題であった。ところが秀吉の救援要請で援軍に赴くように命じられたため、信長に疑われることなく軍勢を集め、その軍勢で光秀は京都の信長を討ち果たす。光秀が近衛前久と内通していた説があるように、秀吉も大納言の勧修寺晴豊らと内通しており、その筋から光秀の謀反計画を知り、要請を行ったとされる。 また、秀吉の中国大返しに関しても、沼城から姫路城まで70キロの距離をわずか1日で撤収しており、秀吉が優秀だったとはいえ、事前に用意をしていなければ不可能なこと、中国大返し後の織田方有力武将への切崩しの異常な速さ、変を知らせる使者は本当に毛利方と間違えて秀吉の陣に入ってきたのか、変後の毛利方との迅速な講和は事前に信長が討たれることを見越して秀吉が小早川隆景・安国寺恵瓊などへ根回しを行っていた結果なのか、など疑惑が持たれている。 上記の説についての反論には以下のものがある。 『信長公記』によれば、高松城への援軍、西国への出陣を立案したのは信長自身であり、秀吉は毛利家主力の出陣を報告したのみで、秀吉側から援軍の要請があったという記述はない。 『浅野家文書』には毛利軍5万人と記されており、秀吉は初期情報のこの数字を元に信長の援軍を請求した。 秀吉の援軍要請は、手柄を独占することによって信長に疑念を持たれるのを避ける(信長自身を招いて信長に手柄を譲る)ための保身であり、有利な状況でありながら援軍を求める必然性は存在する(『常山記談』)。 本能寺の変直後の6月3日には、江北周辺の武田元明、京極高次らの武将は光秀に呼応し秀吉の居城である長浜城を接収し、同城には光秀の重臣である斎藤利三が入城している。また、長浜にいた秀吉の家族らは本能寺の急報を聞き、美濃へ避難している(『言経卿記』『豊鑑』)。このことから、光秀と秀吉に先立っての接触があったとは考えづらい。 もし秀吉が光秀と共謀していたなら、山崎の合戦で光秀はそのことを黙って討たれたことになる。共謀が事実ならばそれを公表することで秀吉は謀反の一味となり、他の織田旧臣や信孝ら織田一族との連合は不可能となり、光秀方に有利な情勢を作り出せた。 当時の武士から見ても不自然な状況であったり、連携を疑わせる情報が流れていれば、後に秀吉と敵対した織田信雄・信孝・柴田勝家・徳川家康などがそれを主張しないのは不自然である。 明智光秀の援軍は、対毛利戦線の山陰道方面に対してのものであり、秀吉が現在戦っている山陽道方面ではない。 事前の用意については、中国大返しは信長自身による援軍を迎えるための準備が、功を奏したもので、当時、中国大返しを疑問視した発言や記録はない。そもそも沼城から姫路城まで、わずか1日で70キロ走破とは、事前の準備があってもあり得ない。実際には1日で撤収したのは最初に姫路城に到着した騎馬武者であり、徒歩の兵士を含めての全てが姫路城まで到着するには、もっと時間がかかっている(『天正記』「惟任謀叛記」)。 本能寺の変を知った吉川元春は和睦を反古にして秀吉軍を攻撃することを主張したが、小早川隆景らの反対によって取り止めになっている。一歩間違えば秀吉は毛利勢と明智勢の挟み撃ちにあった恐れが大であり、現に滝川一益のように本能寺の変が敵方に知られたことにより大敗し領土を失った信長配下の武将も存在し、秀吉がこのような危険を謀略としてあえて意図したとは考えにくい。 また迅速な撤収も、沼城から姫路城までに限られており、それ以降の光秀との決戦までの行軍は常識的な速度である。姫路城までの迅速な撤収は毛利の追撃を恐れての行動であり、姫路城からは上方の情報収集や加勢を募っての行軍であった。これは、事前に用意した上での行動というよりは、予期せぬ事態への対処とみるのが妥当である。更に秀吉の撤退、毛利の追撃、いずれにしても、両勢力の境目にあり、備前・美作を支配する宇喜多氏の動向が不透明であったことも考慮する必要がある。 なお、「豊臣秀吉黒幕説」は、数多い「本能寺の変黒幕説」のひとつに過ぎない(黒幕候補は他にも存在する)し、また「本能寺の変黒幕説」そのものが、明智光秀の謀反の理由として推測されるひとつに過ぎないことは留意する必要がある。明智光秀の謀反の動機が不明で、現在に至るまで定説が確立していないことが、光秀自身以外に動機を求める「豊臣秀吉黒幕説」を含めた黒幕説を生み出す要因となっている。
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