本能寺の変と天正壬午の乱とは? わかりやすく解説

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本能寺の変と天正壬午の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 11:18 UTC 版)

徳川家康」の記事における「本能寺の変と天正壬午の乱」の解説

天正10年1582年5月駿河拝領の礼のため、信長招きに応じて降伏した穴山信君とともに居城安土城訪れたこの際秀吉より援軍要請があった信長は自ら出陣することを決めたが、家康もこれに従い帰国後に軍勢整えて西国出陣する予定だった。 6月2日、堺を遊覧中に京で本能寺の変起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態となり、一時狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝説得され翻意し、服部半蔵進言を受け、伊賀国険しい山道を越え加太越経て伊勢国から海路三河国辛うじて戻った神君伊賀越え)。帰国後、家康直ちに兵を率いて上洛ようとしたが、鳴海秀吉光秀討った報を受けて引き返した一方織田氏領国となっていた旧武田領の甲斐国信濃国では大量一揆起こった。さらに、越後国の上杉氏相模国北条氏も旧武田領への侵攻気配見せた。旧武田領国のうち上野一国信濃小県郡佐久郡支配担っていた滝川一益は、旧武田領を治めてまだ3か月ほどしか経っておらず、軍の編成済んでいなかったことや、武田遺臣による一揆相次いで勃発したため、滝川配下であった信濃国森長可毛利秀頼領地捨て畿内敗走したまた、甲斐一国信濃諏訪郡支配担った河尻秀隆一揆勢に敗れ戦死するなど緊迫した状況にあった追い打ちをかけるように、織田氏同盟関係築いていた北条氏一方的に同盟破り北条氏直率いる6の軍が武蔵上野国境に襲来した滝川一益北条氏直迎撃緒戦勝利する敗北尾張国まで敗走したこのため甲斐信濃上野領主のいない空白地帯となり、家康武田氏遺臣岡部正綱依田信蕃甲斐国辺境武士団である武川衆らを先鋒とし、自らも8,000人の軍勢率いて甲斐国攻め入った天正壬午の乱)。 一方甲斐信濃上野空白地帯となったのを見た北条氏直も、叔父北条氏規北条氏照5万5,000人の軍勢率いて碓氷峠越えて信濃国侵攻した北条軍上杉軍川中島対峙した後に和睦し南へ進軍した家康甲府尊躰寺一条信龍屋敷本陣置いていたが、新府城韮崎市中田町中條)に本陣を移すと七里岩台上城砦群に布陣し若神子城北杜市須玉町若神子)に本陣を置く北条勢と対峙した。 ここに徳川軍北条軍全面対決様相呈したが、依田信蕃調略受けて滝川配下から北条転身していた真田昌幸徳川軍再度寝返り、その執拗なゲリラ戦法前に戦意喪失した北条軍は、板部岡江雪斎使者として家康和睦求めた和睦条件は、上野国北条氏が、甲斐国信濃国徳川氏それぞれ領有し家康次女督姫が氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康北条氏縁戚同盟関係を結び、同時に甲斐信濃北信濃郡は上杉領)・駿河遠江三河の5か国を領有する大大名へとのし上がった

※この「本能寺の変と天正壬午の乱」の解説は、「徳川家康」の解説の一部です。
「本能寺の変と天正壬午の乱」を含む「徳川家康」の記事については、「徳川家康」の概要を参照ください。

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