本能寺の変と上州諸将
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 09:24 UTC 版)
「神流川の戦い」の記事における「本能寺の変と上州諸将」の解説
6月2日、織田信長が本能寺の変によって横死してしまう。 6月9日、一益にもその報が届き、篠岡平右衛、津田治右衛門、滝川益重等の家臣を呼び伝えたところ、滝川益重等は「このことは上野衆に隠密にして、上洛することが当然である。国人を集めて披露するなど軽率なり」と申し出た。しかし一益は「諫言もっともなり、しかしけして軽率ではない、悪事千里を行くと云うことわざがある、国人が信長公の死去を他から聞けば、我々に隔意をもつであろうから、急いで城主どもを呼び集めよ」と廻書を遣わした。 この頃、箕輪城を明け渡した内藤昌月は謀叛を疑われ、内藤家に身を寄せていた保科正俊、保科正直等と共に一門命運も尽きたと覚悟していたところ、本能寺の変の知らせと合力の使いが滝川方よりもたらされ、驚くとともに安堵したと伝わる。 6月10日、上州の諸将を集めた一益は、信長父子兇変(きょうへん)を告げ、「我等は上方にはせ帰り織田信雄、信孝両公を守り、光秀と一戦して先君の重恩に報いねばならぬ。この機に乗じ一益の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく戦いを仕かけるがよい。それがしは北条勢と決戦を交え、利不利にかかわらず上方に向かうつもりだ。」(上毛古戦記)と述べた。 6月11日、一益は長昌寺(厩橋)で能を興行しているが、総構を大竹にて二重につくるほどの厳重ぶりであり、上野衆を討ち果たす計略ではないかとの噂が北条高広(旧厩橋城主)の家臣らの間で流れたという。 一方、一益は6月12日付けの書状で、上方の安否を聞いてきた小泉城(東毛)の富岡秀高(六郎四郎)に対し、「京都の情勢は、それ(信長死去)以後なんとも聞いてはおりません、別に変わったことはありません、」と書状を送っている。一益が集め真実を告げたのは、上州諸将の内、北条高広など主要な武将のみであったとも考えられる。
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