本能寺の変の原因とは? わかりやすく解説

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本能寺の変の原因

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:47 UTC 版)

明智光秀」の記事における「本能寺の変の原因」の解説

詳細は「本能寺の変#変の要因」を参照 本能寺の変でなぜ光秀信長謀反をしたのか、さまざまな理由指摘されているが、確固たる原因理由結論として出されているわけではない。以下に現在主張されている主な説を記す。 怨恨説 主君信長短気かつ苛烈性格であったため、光秀常々非情な仕打ち受けていたという説。以下はその代表例とされるもの。信長に七盃入り大きい盃に入った酒を強要され下戸光秀が「思い寄らず」と辞退すると、信長に「此の白刃呑むべきか、酒を飲むべきか」と脇差口元突き付けられ酒を飲んだとしている(湯浅常山常山紀談』)。 同じく酒席光秀目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカ頭(禿頭の意)」と満座の中で信長怒鳴りつけられ、頭を打たれた(キンカ頭とは、「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上部分合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説もある)。 天正7年1579年6月丹波八上城自身母親人質として出して本目の城(神尾山城か)に招いた八上城主の波多野秀治・秀尚兄弟従者11人を生け捕りにして安土移送したが、信長刺客襲われ秀治殺害され、秀尚以下残った者は磔にされた。これに激怒した八上城家臣光秀母親を磔にして殺害してしまった。殺害され母親の死体は、首を切断され木に縛られていたと言われる。しかしこれは他の史料とは一致せず創作である。『信長公記』では光秀八上城前年より一年間包囲して責め立てて兵糧攻め丹波兵を餓死させ、諦めて最後の出撃出た敵を悉く討ち取ったとある。捕虜にした波多野兄弟3人は同年6月4日安土慈恩寺現在の浄厳院付近)の町外れで磔にされたが、既に観念して神妙な最後遂げたとある。 天正10年1582年)、信長武田家滅ぼした徳川家康の功を労うため、安土城において家康饗応した。この時の本膳料理献立は「天正十年安土御献立」として『続群書類従』に収録されている。光秀家康接待任され献立から考えて苦労して用意した料理を「腐っている」と信長因縁つけられて任を解かれすぐさま秀吉援軍行け命じられてしまう。この時の解釈にも諸説あり、安土大饗応の時、実は信長光秀に対して徳川家康討て命じた光秀がそれを拒否した為に接待役を免ぜられたという説、「(肴)が腐っている」というのは毒を入れろと言ったのになぜ入れなかったのかという信長怒りという説、信長自らがわざわざ鷹狩途中立寄って材料魚鳥吟味したが、肉が腐っていると草履踏み散らし光秀新たに用意していたところ「備中出陣せよ」と下知されたが、忍びかねて叛いたとしている(『常山紀談』)。 中国2国(出雲国石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀領地にしてもいいが、その時滋賀郡近江坂本)・丹波国召し上げにする、と伝えられたこと。(『明智軍記』) 甲州征伐の際に、信濃の反武田派の豪族織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長激怒し小姓森成利森蘭丸)に鉄扇叩かれ恥をかいた(『明智軍記』)。 フロイスは、「人々が語るところによれば密室信長口論の末光秀1、2足蹴にした」と記している(『フロイス日本史』)。これを元に桑田忠親著書明智光秀』で、面目を失ったためと「本能寺の変 怨恨説」を唱えた野望説 光秀自身天下統一狙っていたという説。この説に対しては「知将とされる光秀が、このような謀反天下取れると思うはずがない」という意見や、「相手100倍上の兵で奇襲できることは、信長を殺すのにこれ以上ないと言える程の機会であった」という意見がある。高柳光寿著『明智光秀』はこの説を採用している。 恐怖心説 長年信長仕えていた佐久間信盛林秀貞達が追放され成果挙げなければ自分いずれは追放されるではないかという不安から信長倒したという説。これは怨恨説など諸説背景としても用いられるもしくは今までにない新し政治・軍事政策を行う規格外信長改革対し光秀旧態依然とした統治重んじる考えであったという説。 理想相違説 信長伝統的な権威秩序否定し犠牲いとわない手法一向宗勢力伊賀虐殺等)で天下の統一事業目指したと歴史解釈した上で光秀衰えた室町幕府再興し混乱犠牲避けながら安定した世の中戻そうとした、と考えたころから発生した説。 この説は、光秀信長の命とともにその将来構想独裁者暴走)をも永遠に断ち切った主張する。そして光秀も自らの手でその理想実現することは叶わなかったが、後の江戸幕府による封建秩序貫かれ安定した社会270年長きわたって続き光秀室町幕府再興通じて思い描いた理想は、江戸幕府によって実現されたと主張する。 なお、光秀自身教養人であったが、近畿地区統括していた関係上、寄騎大名にも名門、旧勢力出身者が多い。特に両翼として同調期待されていた細川氏管領家分流)、筒井氏興福寺衆徒大名化)は典型であり、こうした状況もこの説の背景となっている。 将軍指令説 / 室町幕府再興説 光秀には足利義昭信長連絡役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘い断りきれなかったのではないかとする説。光秀義昭奉じるのは大義名分があるが、直接指令があったのかどうか含めて義昭積極関与を示すような証拠依然として存在しない。ただし、藤田達生紀州武将土橋重治充て光秀直筆書状 から、光秀本能寺の変の後義昭を京に迎え入れ室町幕府再興するという明確な構想があったことを指摘している。上記理想相違説通じ部分がある。 朝廷説信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀謀反考えたではないかとする説。この説の前提として、天正10年1582年)頃に信長正親町天皇譲位などの強引な朝廷工作行い始めており、また近年発見され安土城本丸御殿遺構から、安土城本丸内裏清涼殿構造なぞって作られたという意見掲げる者もいる。 立花京子は『天正十年夏記』等をもとに、朝廷すなわち誠仁親王近衛前久がこの変の中心人物であった各種論文指摘している。この「朝廷黒幕説」とも呼べる説の主要な論拠となった天正十年夏記』(『晴豊記』)は、誠仁親王義弟武家伝奏勧修寺晴豊日記一部であり、史料としての信頼性は高い。立花説の見解従えば正親町天皇信長相互依存関係を築くことにより、窮乏していた財政事情回復させたのは事実としても、信長朝廷間柄良好であったという解釈成り立たない三職推任問題等を考慮すると、朝廷信長一連の行動危機感持っていたことになる。 朝廷または公家関与説は、足利義昭謀略説、「愛宕百韻」の連歌師里村紹巴との共同謀議説と揃って論証されることが多くそれだけ当時歴史的資料根拠として出されている。ただし、立花説では「首謀者」であるはずの誠仁親王変後切腹覚悟するところまで追い詰められながら命からがら逃げ延びていること、『晴豊記』の近衛前久光秀謀反に関わっていたという噂を「ひきよ」とする記述解釈など問題も多い(立花は「非挙よくない企て)」と解釈しているが、これは「非拠(でたらめ)」と解釈されるべきであるとの津田倫明、橋本政宣らの指摘がある)。 一時期有力な説として注目されていたが、立花が「イエズス会説」に転換した現在、この説を唱える研究者はほぼいない。 四国説 比較新しい説とされ、野望説怨恨説議論戦わせ高柳桑田双方とも互いの説を主張する中で信長四国政策転換について指摘している。信長光秀四国長宗我部氏懐柔命じていた。光秀斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎつけたが、天正8年1580年)に入ると織田信長秀吉結んだ三好康長との関係を重視し武力による四国平定方針変更したため光秀面目丸つぶれになった大坂四国討伐軍が集結する直前見計らって光秀正確には利三)が本能寺襲撃したとする。藤田達生から光秀・元親ライン羽柴秀吉三好康長ライン対立結果だと主張されている。橋場日月は、四国ルート九州に進む光秀構想が、秀吉中国ルート構想敗れたことが変を呼んだとする四国説バリエーション唱えるイエズス会説 信長天下統一事業後押しした黒幕を、当時イエズス会先兵アジアへの侵攻目論んでいたキリスト教会南欧勢力スペインとポルトガル)とする。信長が、パトロンであるイエズス会及びスペインポルトガルの植民地拡張政策意向から逸脱する独自の動き見せたため、キリスト教影響され武将謀り本能寺の変演出されたとする説。この説には大友宗麟豊臣秀吉同盟関係出てくるが、他にイエズス会内の別働隊が、キリシタン大名組んで信長謀殺謀ったとする説も出てきている。いずれも宗教上の問題以外に硝石新式鉄砲等の貿易利ざやがあったとされる。しかし、イエズス会の宣教師本国の手紙で「日本武力制圧するのは無理です」と書いている事柄からすると、「商業主義」を政策として行っていた信長政権イエズス会が倒すのはデメリットになる。 この説を唱える立花京子史料扱い方解釈問題があり、歴史学界ではほとんど顧みられていないキリシタン大名との関係では、朝廷同じように関係を継続してこうとする光秀考えと、信長武力による天下統一考え方大きなズレ生じたとする傾向の説が出ている。

※この「本能寺の変の原因」の解説は、「明智光秀」の解説の一部です。
「本能寺の変の原因」を含む「明智光秀」の記事については、「明智光秀」の概要を参照ください。

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