元親夫人と中央政権とのつながり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 10:23 UTC 版)
「元親夫人」の記事における「元親夫人と中央政権とのつながり」の解説
天正3年(1575年)四万十川の戦いで土佐国を統一した元親は織田信長の重臣となった明智光秀を通じて、嫡男の弥三郎(後の信親)の烏帽子親として信の一字と、四国の切り取り自由の許可を貰った。しかし、信長が石山本願寺・武田勝頼と強敵を滅ぼし、敵が毛利輝元・上杉景勝などに絞られると、四国切り取り自由の約定を反故とし、土佐一国と阿波二郡を安堵するので兵を引くように命じた。これを元親が突っぱねると、信長は三男織田信孝を総大将とし、四国征伐の遠征軍を向かわせようとした。ところが光秀が本能寺の変を起こし、危機を脱した。このことから、斎藤利三が縁者である石谷氏の危機を救うために光秀に直訴したことが本能寺の変の原因になった、とする説がある[要出典]。
※この「元親夫人と中央政権とのつながり」の解説は、「元親夫人」の解説の一部です。
「元親夫人と中央政権とのつながり」を含む「元親夫人」の記事については、「元親夫人」の概要を参照ください。
- 元親夫人と中央政権とのつながりのページへのリンク