本能寺の変から小牧・長久手の戦いとは? わかりやすく解説

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本能寺の変から小牧・長久手の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 20:54 UTC 版)

織田信雄」の記事における「本能寺の変から小牧・長久手の戦い」の解説

天正10年1582年6月2日信長家臣明智光秀によって討たれ本能寺の変)、6月13日には織田家臣羽柴秀吉光秀を討つ(山崎の戦い)。本能寺の変に際して信意は近江国甲賀郡土山まで進軍したものの、戦わないまま撤退した。『勢州軍記によれば伊賀の国人衆が不穏な動き見せた事や、信孝の四国征伐軍に信意の軍勢大部分援軍として派遣しており兵数2500程度で心もとなかった事が理由だという。確かに、信孝は5万程度所領(『当代記』)で各地軍勢がかき集められたが、伊勢国からは北伊勢衆のみである。10月に、東国において徳川家康後北条氏らとのあいだで甲斐信濃武田遺領巡り発生した天正壬午の乱では、信意は信孝とともに双方和睦仲介した。 戦後清洲会議で信意は兄・信忠亡き後織田家後継者になろうとするものの、結局織田家当主三法師後見役は信意、信孝となる。信長遺領配分で、信意は尾張伊賀南伊勢約100万石を相続したその際織田姓に復して信勝[要出典]、次いで信雄[要出典]と称し家臣津川義冬家老取り立てている[要出典]。義冬は信雄の一字与えられて「雄光」と改名した天正10年1582年)、信雄と紀伊新宮城主の堀内氏善とが荷坂峠を境として、それぞれ紀伊国牟婁郡伊勢国度会郡編入したため、志摩国現在の三重県鳥羽市志摩市だけの地域限定された[要出典]。天正10年10月28日秀吉惟住長秀池田恒興三法師織田家当主として擁立した清洲会議決定事項反故し、信雄を当主として擁立し主従関係結んだ。後にこれは徳川家康にも賛同された[要出典]。 尾張伊勢支配した信雄は、2度にわたる検地実施し知行制統一図った天正11年検地は、全領国貫高統一的に把握し改め知行宛行を行うことで統一的知行制実現した。更に天正14年再検地では、新たな検地原則の下に在地掌握強化図られ、それによって確立した知行制は、貫高制ではあっても既に信長時代貫高制止揚した、近世石高知行制内実備えたものとみなし得るその後台頭してきた秀吉と信孝・柴田勝家らが争い天正11年1583年4月賤ヶ岳の戦い発生した。信雄は秀吉方に属した5月には信孝を岐阜城攻めて降伏させた。信孝は尾張送られる途中で切腹させられた。柴田勝家お市の方自害した後に三人の娘を引き取って後見して面倒をみたのは秀吉ではなく、信雄であるともいわれており、また三姉妹三女の江を佐治一成に嫁がせたのも秀吉ではなく、信雄であったとされる藤田達生は、山崎賤ヶ岳勝利した秀吉信長政権直接継承したではなく、信雄が秀吉臣従するまでは親子2代織田政権安土幕府であったとする見解示している。 さらに勝家方の滝川一益秀吉降服し、信雄は北伊勢伊賀加増され、前田玄以京都所司代任命し三法師後見として安土城入城した。しかし、すぐに秀吉退去させられ、信雄と秀吉の関係は険悪化した。天正12年1584年正月近江国坂本三井寺秀吉会見した決裂し伊勢長島城に戻った。そして信雄は家康接近し同盟関係を結ぶ。 天正12年1584年3月6日家康相談した上で秀吉内通し疑いにより重臣津川雄光(義冬)・岡田重孝浅井長時殺害して秀吉宣戦布告をする(小牧・長久手の戦い)。3月11日清州城家康作戦会議開き陣城の構築指示した。また長宗我部元親佐々成政雑賀衆とも結び連合して羽柴家戦った織田徳川連合軍秀吉戦闘状態に入り4月9日長久手の戦い羽柴方の池田恒興森長可らを討ち取った。しかし、伊勢では誅殺された重臣3人の一族造反し、更に秀吉計略九鬼嘉隆秋山直国らも謀反に及び、また羽柴秀長蒲生氏郷堀秀政筒井順慶藤堂高虎羽柴勢侵攻を受け、峯城松ヶ島城戸木城落城した。そして11月15日伊賀南伊勢に加え北伊勢一部秀吉への割譲などを条件に、家康無断単独講和結んだこのため、信雄を擁していた家康は、秀吉と戦う大義名分失って撤兵した。なお、裕之はこの講和の後に秀吉は信雄を正式な織田家当主三法師名代ではなく)に据えたとする。 戦後、信雄の領国は、尾張北伊勢5郡(桑名員弁朝明三重河曲となった領国縮小により、家臣団知行替え大規模に行われたこの際滝川雄利神戸城河曲郡)を与えた以降秀吉臣従し、天正13年1585年8月富山の役従軍した。また11月には家康元へ織田長益滝川雄利土方雄久送り上洛促している。天正15年1587年)の九州征伐では出陣する秀吉勅使とともに見送った九州征伐後は内大臣任官天正18年1590年1月秀吉養女となった長女小姫徳川秀忠結婚。なお、長島城天正13年1585年11月天正地震大破したため、地震以後清洲城改修し居城とした。

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