神戸城とは? わかりやすく解説

神戸城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/12 07:15 UTC 版)

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神戸城
三重県
神戸城石垣
別名 本多城
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 複合連結式5重6階(天正8年(1580年)築・非現存)
築城主 神戸具盛
築城年 天文年間(1532年 - 1555年
主な改修者 神戸信孝本多忠統
主な城主 神戸氏、石川氏、本多氏
廃城年 明治4年(1871年
遺構 石垣、堀、移築櫓・門
指定文化財 三重県史跡
位置 北緯34度52分44.75秒 東経136度34分38.73秒 / 北緯34.8790972度 東経136.5774250度 / 34.8790972; 136.5774250座標: 北緯34度52分44.75秒 東経136度34分38.73秒 / 北緯34.8790972度 東経136.5774250度 / 34.8790972; 136.5774250
地図
神戸城
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神戸城(かんべじょう)は、三重県鈴鹿市神戸本多町にあった日本の城江戸時代には神戸藩の藩庁が置かれた。

概要

神戸氏4代の神戸具盛天文年間(1532年 - 1555年)に築城し、本拠地を澤城(神戸西城)から移した。滝川一益の侵攻に和睦し、養子にうけいれた織田信長の三男・神戸信孝により、より強固に修築された。城主は度々代わり、関ヶ原の戦い以降は一柳氏が5万石で入った。

その後、一時期天領となった時期もあったが、慶安3年(1650年)、石川総長が1万石で当地に封じられた。享保17年(1732年)には本多忠統が2万石で封じられ、城を修築し入城した。以降明治維新まで、本多氏7代が居城として用いた。

本丸には野面積みの天守台があり、かつては神戸信孝により5重6階の天守が築かれ、北東に小天守と南西に付櫓がある複合連結式の天守であったことが確認されている。天守は文禄4年(1595年)に解体され、桑名城に三重櫓として移築され神戸櫓と呼ばれた。現在、城の中心部は神戸公園となり、二の丸跡には、三重県立神戸高等学校が建てられている。

遺構

城跡は公園として整備され、本丸の石垣および堀の一部が残る。昭和12年(1937年)に、三重県の史跡に指定されている[1]

現存する建物として、市内東玉垣町の蓮花寺の鐘楼として移築された二の丸太鼓櫓、および四日市市西日野町の顕正寺に移築された大手門がある。

城下の龍光寺には、神戸城主の本多忠統が建てた書院(坐忘亭、県指定有形文化財)がある。

画像

脚注

  1. ^ 神戸城跡”. 三重県教育委員会. 2012年8月5日閲覧。

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