神戸家養子
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永禄11年(1568年)2月、信長が伊勢国北部を平定した際に、降伏した神戸城(三重県鈴鹿市)城主・神戸具盛(友盛)の養嗣子とされた。これは「押入聟」で神戸家と関家の不快を余所に家を乗っ取るための計略であったが、以後は神戸三七郎を名乗っている。 養子入りに際しては、乳兄弟の幸田彦右衛門が傳役として付けられ、信長家臣からは岡本太郎右衛門・坂仙斎・三宅権右衛門・坂口縫殿助・山下三右衛門・末松吉左衛門らが信孝付きとして付けられた。伊勢国の関氏一族の関・峯・国府・鹿伏兎氏らも与力とされ、このほか峰竹右衛門・山路段左衛門・上田主水・野々懸彦之進・吉川九兵衛・岡本氏・長尾氏・神戸氏・安井氏・可児氏・林氏などの名が家臣として見られる。 元亀元年(1570年)頃より信孝は養父の具盛と不仲となり、信長は具盛を伊勢沢城に強制的に隠居させ、さらには蒲生賢秀に命じて近江日野城に幽閉させた。翌元亀2年(1571年)、このような形で信孝は神戸氏を継いだので、同時に家督相続に反対した旧臣を粛清し、高岡城主の家老・山路弾正忠を切腹させ、120人の家臣を追放した。引き続き神戸家に仕えた家臣団が480人であったことから、これを神戸四百八十人衆と称した。 相続後、信長の命令で神戸検地(元亀2年頃)と呼ばれる検地を行い、城下に楽市楽座、伝馬制を敷くなど領地経営に力を注いだ。神戸城下は伊勢参宮街道の宿場として大いに栄えた。 なお、『勢州軍記』『柏崎物語』によると、元亀3年(1572年)1月に兄の信忠や信雄と共に岐阜城において元服して、加冠役は柴田勝家が務めたというが、史料に残る名乗りを見ると信忠の元服は少なくとも天正元年頃であり、兄より先に元服したとは考え難いために誤伝の可能性が高い。実際の元服は、天正元年7月以降と考えた方が妥当であろう。 与力であった関盛信は、本来、神戸家の本家筋で上位である名門関氏の当主であり、信孝を軽んじてこれに従わず、不仲であった。しかし信孝の伊勢入国は、単なる縁組ではなく、信長の支配政策の一つであって逆らうことは許されなかった。その反抗的な態度が信長の耳に届くようになると、天正元年(1573年)春、関盛信はついに信長の勘気を蒙り、蒲生賢秀に身柄を預けられて近江日野城に幽閉された。盛信の居城亀山城は没収され、信孝の所領とされた。
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