神戸家養子とは? わかりやすく解説

神戸家養子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 16:20 UTC 版)

織田信孝」の記事における「神戸家養子」の解説

永禄11年1568年2月信長伊勢国北部平定した際に、降伏した神戸城三重県鈴鹿市城主神戸具盛(友盛)の養嗣子とされた。これは「押入聟」で神戸家関家の不快を余所に家を乗っ取るための計略であったが、以後神戸三七郎を名乗っている。 養子入りに際しては、乳兄弟幸田右衛門が傳役として付けられ信長家臣からは岡本太郎右衛門・坂仙斎・三宅権右衛門坂口縫殿助・山下三右衛門末松左衛門らが信孝付きとして付けられた。伊勢国関氏一族の関・峯・国府鹿伏兎氏らも与力とされ、このほか峰竹右衛門山路左衛門上田主水野々彦之進吉川九兵衛岡本氏長尾氏神戸氏安井氏可児氏・林氏などの名が家臣として見られる元亀元年1570年)頃より信孝は養父の具盛と不仲となり、信長は具盛を伊勢沢城強制的に隠居させ、さらには蒲生賢秀命じて近江日野城幽閉させた。翌元亀2年1571年)、このような形で信孝は神戸氏継いだので、同時に家督相続反対した旧臣粛清し、高岡城主の家老山路弾正忠を切腹させ、120人の家臣追放した引き続き神戸家仕えた家臣団480であったことから、これを神戸四百八十人衆と称した相続後、信長命令神戸検地元亀2年頃)と呼ばれる検地行い城下楽市楽座伝馬制を敷くなど領地経営に力を注いだ神戸城下は伊勢参宮街道宿場として大い栄えた。 なお、『勢州軍記』『柏崎物語』によると、元亀3年1572年1月に兄の信忠や信雄と共に岐阜城において元服して加冠役柴田勝家務めたというが、史料に残る名乗りを見ると信忠元服少なくとも天正元年頃であり、兄より先に元服したとは考えいために誤伝可能性が高い。実際元服は、天正元年7月以降考えた方が妥当であろう与力であった関盛信は、本来、神戸家本家筋で上位である名門関氏当主であり、信孝を軽んじてこれに従わず不仲であった。しかし信孝の伊勢入国は、単なる縁組ではなく信長支配政策一つであって逆らうことは許されなかった。その反抗的な態度信長の耳に届くようになると、天正元年1573年)春、関盛信はついに信長勘気を蒙り、蒲生賢秀身柄預けられ近江日野城幽閉された。盛信の居城亀山城没収され、信孝の所領とされた。

※この「神戸家養子」の解説は、「織田信孝」の解説の一部です。
「神戸家養子」を含む「織田信孝」の記事については、「織田信孝」の概要を参照ください。

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