神戸寄港と「長崎県上海市」
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「日華連絡船」の記事における「神戸寄港と「長崎県上海市」」の解説
華々しく運行を開始したものの乗客数は伸び悩み、国庫から年間45万円もの補填を受けたにも関わらず45万円の欠損を計上した。 日本郵船は長崎港での帯港時間短縮や運行回数等の見直し等の合理化に着手し、1924年(大正14年)5月からは航路の起点を神戸港とし、神戸~長崎間の都市間輸送による乗客数の増加を狙った。神戸~長崎間の運賃は10円(3等)で、「汽車よりも安くて快適」と乗客の評価は高く、利用者は順調に伸び始めた。 1927年(昭和2年)には出島岸壁の北側に元船岸壁が完成し、出島岸壁と合わせて8.000トン級の船舶2隻、もしくは5.000トン級船舶の同時着岸が可能となった。1930年(昭和5年)には長崎駅から出島岸壁へいたる鉄道線路(通称:臨港線)が開通し、出島岸壁の隣接地に長崎港駅が開設された。長崎港駅へは、連絡線入港時にのみ門司行き急行列車(当時関門トンネルは未開通)が接続する形が取られ、大阪、東京方面へと向かう乗客の利便性が向上した。 1934年(昭和9年)に日本初の国立公園に指定された雲仙は、本航路の存在により「上海から近く温泉の出る避暑地」として注目を集めた。 当時の長崎市民にとって旅券が不要な上海は「長崎県上海市」、「下駄履きでいける外国」と言われるほど身近な存在となっていた。当時の新聞記事(大阪毎日新聞 1933年1月10日付)では、日本人居留民の出身地について「九州人中、一番多いのはなんといつても海一つの長崎県人で約一万五千名、次が佐賀県人、福岡、熊本、鹿児島、大分の各県の順となつてゐる。(後略)」と紹介されている。1930年時点での上海在住日本人の総数は24,207人であり、居留民の半数以上が長崎県出身であった。
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