四国遠征の中止
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「四国攻め」および「本能寺の変」も参照 天正10年(1582年)正月15日、前年と同じく信孝は左義長に連枝衆として参加した。 2月、信長は交渉決裂した長宗我部氏の征伐を決意。信長の信濃出陣と同じ9日に三好咲岩(康長)に四国遠征の先鋒を命じて一足先に出陣させた。信長は4月22日に安土城に帰還すると、高野山攻めを一部中止して、5月7日、信孝を四国攻めの総司令官に抜擢。指揮権を与えられた一門衆は信忠・信雄・信孝の3人のみである。『織田軍記』では信孝の置かれた地位を「南海の総管」と呼んでいる。 この時、信長は朱印状を出して、征服後には讃岐一国を信孝に与えるとし、阿波国は咲岩に与え、伊予・土佐二国の帰属は信長が淡路に出陣した時点で申し渡すとした。信孝は四国の国人統制の心得についても条書で諭されている。また信孝が三好咲岩の養嗣子となり、三好氏を継いで四国を治めることが予定されていたようである。同時に神戸具盛は赦免されて12年ぶりに幽閉を解かれ、隠居地の伊勢沢城に戻されて、信孝遠征中の神戸城の留守居役を命じられた。 信孝は、所領の北伊勢の河曲・鈴鹿2郡の15歳から60歳に至る名主・百姓を尽く動員した。それでも足りずに伊勢国内の牢人衆、伊勢各地の国衆を急遽召し抱え、近隣の伊賀衆・甲賀衆を700 - 800人、紀州の雑賀衆1,000人も加えた。信孝の徴集は丹州(丹波国・丹後国)にも及び、国衆に対して兵糧・飼葉・武器弾薬・船人夫を調達して四国遠征軍に補給するように命じていた。この他、南山城国相楽郡にも動員令がでていたことがわかっている。 5月27日、信孝はこのように「各地から集合した者」であったという兵14,000を従えて、安土に伺候した。信長は四国遠征軍の副将として織田氏の宿老・丹羽長秀、その義弟・蜂屋頼隆、連枝衆で信孝の次席である津田信澄を付しただけでなく、『イエズス会日本年鑑』によると信孝に「一夜に大名にお成り候」というほどの人夫・馬・兵糧・黄金など莫大な贈り物を与えたという。 翌28、29日、軍勢は摂津国に至り、信孝と頼隆は住吉に、信澄は大坂に着陣した。堺には九鬼嘉隆率いる鉄甲船9隻を含む志摩・鳥羽水軍、紀伊海賊衆の100艘がすでに待機しており、信孝は堺でさらに200艘を調達して出航するつもりだったが、これは堺商人らにとっては「もってのほか迷惑」であったという。四国(淡路)渡海の決行は6月2日または3日に予定されていた。しかし、まさに6月2日早朝に本能寺の変が勃発した。
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