四国遠征の中止とは? わかりやすく解説

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四国遠征の中止

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 16:20 UTC 版)

織田信孝」の記事における「四国遠征の中止」の解説

四国攻め」および「本能寺の変」も参照 天正10年1582年正月15日前年同じく信孝は左義長連枝衆として参加した2月信長交渉決裂した長宗我部氏征伐決意信長信濃出陣と同じ9日三好咲岩(康長)に四国遠征先鋒命じて一足先に出陣させた。信長4月22日安土城帰還すると、高野山攻め一部中止して5月7日、信孝を四国攻め総司令官抜擢指揮権与えられ一門衆信忠・信雄・信孝の3人のみである。『織田軍記』では信孝の置かれ地位を「南海総管」と呼んでいる。 この時、信長朱印状出して征服後には讃岐一国を信孝に与えるとし、阿波国は咲岩に与え伊予土佐二国帰属信長淡路出陣した時点申し渡すとした。信孝は四国国人統制心得についても条書で諭されている。また信孝が三好咲岩の養嗣子となり、三好氏継いで四国治めることが予定されていたようである。同時に神戸具盛赦免され12年ぶりに幽閉解かれ隠居地の伊勢沢城戻されて、信孝遠征中の神戸城留守居役命じられた。 信孝は、所領北伊勢河曲鈴鹿2郡の15歳から60歳に至る名主百姓尽く動員した。それでも足りず伊勢国内の牢人衆、伊勢各地国衆急遽召し抱え近隣伊賀衆甲賀衆700 - 800人、紀州雑賀衆1,000人も加えた。信孝の徴集丹州丹波国丹後国)にも及び、国衆に対して兵糧飼葉武器弾薬船人夫を調達して四国遠征軍補給するように命じていた。この他南山城国相楽郡にも動員令がでていたことがわかっている。 5月27日、信孝はこのように各地から集合した者」であったという兵14,000従えて安土伺候した信長四国遠征軍副将として織田氏宿老丹羽長秀、その義弟蜂屋頼隆連枝衆で信孝の次席である津田信澄付しただけでなく、『イエズス会日本年鑑』によると信孝に「一夜大名お成り候」というほどの人夫馬・兵糧・黄金など莫大な贈り物与えたという。 翌2829日軍勢摂津国至り、信孝と頼隆は住吉に、信澄は大坂着陣した。堺には九鬼嘉隆率い鉄甲船9隻を含む志摩鳥羽水軍紀伊海賊衆100艘がすでに待機しており、信孝は堺でさらに200艘を調達して出航するつもりだったが、これは堺商人らにとっては「もってのほか迷惑」であったという。四国淡路渡海決行6月2日または3日予定されていた。しかし、まさに6月2日早朝本能寺の変勃発した

※この「四国遠征の中止」の解説は、「織田信孝」の解説の一部です。
「四国遠征の中止」を含む「織田信孝」の記事については、「織田信孝」の概要を参照ください。

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